教育資料館にあった大正5年(1916年)の中学校英語教科書に学ぶ

北 弘志

 人間の実生活(real life)においては、表層的なコミュニケーション(Communication)ではなくて、人間と人間のインタラクション (Interaction)こそが、真のコミュニケーションであると思う。従って、そしてこのインターラクションの原点が、一個の疑問文であり、 そこから、対話文(Dialog)が生まれ、それらの対話文の中に、インタラクションを構成する主要素、すなわち、質問、依頼、申し出、確認、賛成、反対、 承諾、拒否、感謝、謝辞、苦情、ほめる、謝る、意見を言う、説明、発表、描写などが含まれることになる。
 本来、インタラクションとは、教師と教材の間で行われる(または起こる)相互作用(相互干渉)である。しかし、ここまでは、 インタラクションを人間同士の対話による、または、対話そのものの、“絡(から)み合い”ととらえたい。つまり、単なる情報のやりとりではなく、 価値観のぶつかり合いも含めて、二人以上の人間が思想、意見、感情をぶつけ合い、摺り合わせ、もみ合って、お互いが態度の変容、人格、 識見、知見を高め、深めていくことが、インタラクションの過程、結果であり、所産であるべきであろう。
 会話を編み上げて行く過程で、価値葛藤が起こる。これが真の会話であり、インタラクション・コミュニケーションである。 またこのような英語言語活動が新学習指導要領で言う実践的コミュニケーション能力の基礎と、コミュニケーションを図ろうとする態度の 育成を図ることに資するのである。
 先日、ラジオで漫才を聴いていた。「今帰ったよ。」「また、飲んできたんでしょう。」「いや、飲んできていないよ。」「嘘ばっかり。飲んできたんでしょう。 顔が赤いじゃないの。」「実は、ちょっと飲んできたんだ。」「やっぱり。だったら、最初から飲んできたって言えばいいじゃないの。」「馬鹿いえ。飲んできたんでしょう、 と聞かれて、はい、飲んできたよ。と答えれば、ああそう、とお前はゆうだろう。だったら、なんも面白くねえじゃねーか。本当のコミュニケーションにはならないじゃないか」 という、夫婦漫才を聞いて、「我が意を得たり」と思わず膝を打った。私は私の持論に確信を持ったのである。
 ここに、本学の教育資料館で見つけた、二冊の大正5年(1916年)発行の(旧制)中学校用英語教科書がある。(写真参照)
 一冊は神田乃武のKANDA’S CROWNREADERSであり、もう一冊は南日恒太郎のNEW ENGLISH COURSEである。いずれも、文部省検定済教科書で、 一年生用で、三省堂の出版によるものである。ここに、紹介する、それぞれからの、各一項ともに共通してみられるのは、私の持論とするインタ−ラクションによる コミュニケーションが見事に教科書教材として具現化していることである。
今日 こんにち の中学校の英語教科書と見比べて欲しい。難易の問題ではなく、大正5年(1916年)の英語教科書の方が(意外に?)生き生きとした会話、対話になっていることである。
 また、今日も一つ学んだ。勉強は楽しい。大切なのは「古い物から学ぶ。新しい考えに反映させる、進歩する」であって、「古い物は幣履のように捨てる。現在の物に安住する。 進歩どころか、退歩していることに気づかない」であってはならないのである。
 さあ、明日は何が学べるかな。そう考えるだけでも、ワクワクしてくる私なのである。
 (平成14年2月23日北研究室にて脱稿)
                        (英語教育講座)