二人展に おも

桐生眞輔

 2002年4月5日からの1ヶ月間、教育資料館において美術教育専攻、書道コースに在籍する山元宣宏、桐生眞輔の二人展が開かれた。
 二人展を終えたのは、つい最近だと思っていたが、何時の間にやら卒業が迫っている。 奈良へ通い6年が過ぎようとしている。 大学に通いはじめた頃は、道を歩いている鹿に一々感動していたが、半年もすれば、当然のように通り過ぎ、鹿の方も頭を下げずに通り去る。
 この展覧会を行ったのは春だったのだと会期を見て思い出す。 図書館前の通路には花びらの絨毯が敷かれ、校門前の遅咲きの八重が下校する私を見送ってくれた。 出迎えてはくれないのと思われるかもしれないが、登校時は授業に向けて先急ぎ、なかなか花にまで心が向けられないのである。 高校のときの先生が言っていた 「風のにおいを感じたり、花に心をうつす気持ちや感受性が大切なんだよ」 との言葉を思い出す。 忙しいときに人は心をうしなう。 心を亡くすことは、自分が見えなくなることなのだろう。
 今からちょうど一年前ぐらいに、二人展を開こうと決まった。 去年の2月頃かに山元君が北京へ1ヶ月ほど行くので向こうで表具を全て行うことになった。 出品作は白の中国表装に統一され、清楚で統一感のある展示を行うことができた。 山元君が出国する日、京都から奈良へ、近鉄電車の始発に乗って数点の作品を持って行ったことを思い出す。
 2人で32点の作品を出品することができた。 この内1点は合作した物である。 それが写真に載せてある「寿山福海」である。 大きさは半紙を少し小さくしたものである。
 竹を画いた半紙を山元君に渡して賛を書いてくれるように頼んだ。 賛とは、画に題して画に添え書かれた詩・歌・文などのことである。 次の日、山元君は「竹が画いてあったから、それに相応しい言葉をと思って」と言いながら 「寿山福海」と賛を入れた半紙を僕に手渡した。 東洋の絵画には象徴的な意味を持つものがある。 蓮の花は蕾、満開、枯れゆく時の3種類が描かれ、それぞれ、過去、現在、未来と時の移り変わりを表す。 輪廻、無常を表し、仏教的なモチーフとしてよく用いられる。 鶴、亀、松竹梅は長生きするものとして誕生日の絵、年賀の画としてよく用いられるものである。 「竹」にこのような象徴性があることを理解して賛を入れてくれたのである。 「寿山福海」は長寿を祝う言葉として用いられる。
 また「寿」一文字で「いのちながし」と読む。 長く曲がって続く田畑の中のあぜ道をあらわす(長い意を示す)形と、老人を示す形の2つを合わせて「寿」という文字になり老人の長命を意味する。 「長寿の祝い」の「祝い」の部分だけをとって日本で用いられるようになったようだが、 中国人は日本人が結婚式の際、「寿」を使うので不思議に思うらしい。
 鑑賞者はこのように言葉の意味や画の象徴性を理解しなければ、本当の意味で鑑賞した事にはならない。
 次に構成から言えば無造作に賛を入れたように思われるが、実際他人の画に賛を入れることは簡単なことではない。 相手の画を生かしつつ、自分の書を生かすことはかなりの力量が必要になる。 この紙面において竹のみでは鑑賞に堪えるものとはならない。 逆に賛を入れてもらうために竹は、控えめに抑えておかなくてはならない。 賛を入れてもらうことを念頭に置きながら画く必要がある。 相手もそれに応じて文字を布さなければ画と賛は紙面上で調和を取ることができない。 この半紙を渡す時に私だったら何処に賛を入れるだろうかと考えていた。 竹を画いた時は半紙の大きさで、写真のものは左部分が四分の一程、表具の際にカットされている。 したがって竹を画いて山本君に渡した時は左部分に随分余白があった。 私ならこの余白に文字を入れるような無粋なことはしないと思いながら渡した。
 出来た作品を見ると竹図と賛は均衡的バランスを持ち、部分と全体とが必然的関係を有した良い作品であった。 寿山福海の部分に縦線が3本引いてある。 このラインは左から
①「寿山福海の左側アウトライン」と「竹の主軸」
②「寿山福海の中心線」と「主軸に添えた軸」
③「寿山の右側アウトライン・福海の旁部」と「落款印」
の有機的な繋がりを示した線であり、他の線もそれぞれ意味があって引いたものである。 また寿山福海の下に山本君の落款印が押してあることで、さらに①から③の流れが強調付けられる。 これらの事を考えると画と賛が有機的な関係を持ち、不可分なものになっている。
 今述べたことが私の見方であるが鑑賞者はそれぞれ自分の観点をもって見ればよいと思う。 しかし、製作者は自分の観点がなければ、自分自身のオリジナルの表現ができないと考える。 オリジナルをつくる為に古典を学ぶのである。 古典の形似のみを学ぶとオリジナルではなく、古典の複写を作るだけである。 その古典を作り上げている法則を古典から学ぶべきである。
 二人展の作品は、オリジナルを目指して作ったものである。 出来ない、至らない所の方が多いかもしれない。 でも自分の足で歩もうとしている。 自分の足で歩む為に学ぼうとしている。 その結果がこの展覧会である。

 「君の崇拝する大家がたとえどんなに偉大であろうとも。要するに君にとって単なる手引きにすぎないはず、 こんなことがわからないのでは君は一介の模写画家に止まってしまう。」

 セザンヌの言葉である。 これは美術を志す人間に対してだけではない。 物を創りだす人すべてに言えることであり、その真理を表す言葉であると思う。

(大学院教育学研究科美術教育専攻2回生)