女が字を書く、女が字を読む

赤井逹郎

 平成5年春の開館展示は、それまでに寄贈をうけた明治以後の教科書を中心とするものであったが、そのなかに「女が字を書く、女が字を読む」という小さなコーナーを設けた。
 浮世絵の女性が字を書き、字を読む姿をあつめ、彼女たちが学んだ手習いの手本を展示したもので、新聞の囲み記事のような、コラム展ともいうべきものであった。
 ひろく女性が教育を受けるようになるのは、明治の義務教育以来のことであり、江戸時代のおんなたちは、ほとんど字を書くことも、読むこともできなかった。と思われがちである。
 江戸時代は男尊女卑の封建社会であり、島崎藤村がいうように、明治維新によって夜が明けるのであり、江戸時代は「夜明け前」のくらい世の中だったというが、近世の美術史や文化史からみると、夜明けはもっと早かったように思う。
 たしかに「文盲」などといわれるように、江戸時代の識字率は、こんにちのように高いものではない。しかし、都市においては商家における丁稚・小僧でもわかるように、文字は生活に不可欠な存在であり、江戸・京・大坂の三都ばかりでなく、城下町などの識字率はかなり高かったと考えられる。
 おんなたちの読解力を人情本にみておこう。爲永春水の人情本は、『春色梅児誉美』天保4(1833)刊にみるように、泣き本などとよばれ、「女史(おなご)の好いた夫婦事、あるいは道行、心中もの」を題材とし、もっぱら若い婦女子を読者に予想して成立したものである。
 しかもそれらは、貸本屋が持ちまわることにより、出版部数をはるかにうわまわる多くの読者、おなごたちにむかえられたのである。
 なお、先年南方熊楠の蒐集した江戸時代の版本のなかに、和歌山の貸本屋の印のあるものを二三見る機会があった。
 江戸で出版された草双紙や絵本は、貸本屋を通し地方の城下町のおなごたちにも読まれたのである。
 読むだけではなく、商家のおかみさんたちともなれば、帳付けなどにかかわることもあったにちがいない。
 和歌山には藩校学習館の督学(教師)の妻川合小梅の日記(東洋文庫所収)のほかに、質屋の女房みねの日記『日知録』が伝えられる。
 都市だけではなく、さいきん相州高座郡羽島村の名主の妻と姑が書きつづった日記が『江戸期おんな考』創刊号に紹介されており、同誌を主催する柴桂子さんによっておんなたちの「旅日記」もあいついで発見されている。
 おんなたちも、近世も末になると寺子屋へ通うようになるが、京都では元禄ころから女祐筆と称して「是を見ならへとて少女をかよわせける」(西鶴『好色一代女』二)といわれたように、『女筆指南』の張紙を出したおなごの手習所があった。
 手習いの手本も女筆・女用何々と女史専用のものがあらわれる。
 今回展示した『女筆君が代』の跋にも、手本の多くは「男筆にして、女子の手本には成かたし、此女筆君か世は長谷川妙躰の手本を集令開板者也」あり、明和9年(1772)刊の出版目録である『大増書籍目録』には55点の女筆手本がみられる。
 『女大学』『女今川』『女実語教』などの女訓書は、こぞって手習いの必要を説く。宝暦13年(1763)刊の『女今川姫鏡』には
  きりやうよくとも、物かかれぬ女中は、歌よまぬ公家にひとしく、位ありても見をとり侍る。
 とある。わたくしは、この本が出された宝暦ごろから、日本の夜がしらじらと明けはじめると考えている。
        (学長)

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