総合校外教授指導案

前田喜四雄

 教育資料館の運営委員になり、資料館の開館準備をお手伝いさせていただいた際、私の目を引き付ける資料があった。それは奈良県師範学校の最後期にあたる昭和12年から17年にかけて作成されたガリ版刷りの「総合校外教授指導案」第1から15輯であった。
 薄いもので17頁、厚いので44頁あり、対象地域の行程入り(最初の頃に作られたものには、その距離、所要時間も書かれている)の地図から始まり、地形、地質、植物、遺跡や神社仏閣をはじめとする歴史、集落図から商店分布図、特産品、その地域に関する歌や文学の紹介まで詳しくふれられている。これを携帯して、あるいは予習して、地図上の行程にしたがって勉強して歩いたと思われる。
 これらは大変興味深いものばかりであるが、紙面の都合で各輯の対象地域と一部の目次だけを以下にあげておく。

第1輯「橿原神宮、大和三山、藤原京」、昭和12年5月。
第3輯「四條畷方面」、昭和13年2月。
第4輯「多武峯、吉野方面」、昭和13年4月、40頁。桜井町の地理的考察、聖林寺、多武峯の植物、吉野川流域の地理的考察、吉野山の地理、吉野朝の歴史、吉野山の旧蹟、金峯山寺と山伏、吉野と文学、吉野山の自然を語る、吉野川の魚類、山葵、20世紀梨、比曽の比曽の世尊寺、大和売薬。
第5輯「生駒、信貴、龍田、法隆寺方面」、昭和13年11月。
第6輯「王寺、二上山方面」、昭和14年3月。
第7輯「田原方面」、昭和14年5月、17頁。奈良市東方の山地(春日山断層、春日山、三笠山、若草山)、春日山の自然物(地質岩石、植物)、田原村付近の地理的特色(位置地勢、交通、産業、集落、戸口、政治教育)、田原村の史蹟、虚空蔵より鹿野園付近までの地理、および歴史(崇道天皇八嶋陵、正暦寺、弘仁寺、円照寺)。
第8輯「金剛山方面」、昭和14年10月。
第9輯「桃山、宇治方面」、昭和15年2月。
第10輯「宇陀、神武天皇聖蹟、室生、初瀬方面」、昭和15年5月。
第11輯「笠置方面」、昭和15年9月。
第12輯「貝吹山、高取山方面」、昭和16年3月。
第14輯「磯城、山辺の道方面」、昭和16年10月。
第15輯「西の京方面」、昭和17年2月、30頁。西の京付近の地理(概説、郡山町の歴史地理、郡山の金魚)、西の京付近の史蹟(不退寺、宇和那辺古墳、法華時、平城宮址、秋篠寺、西大寺、菅原神社、唐招提寺、薬師寺、大安寺)、西の京付近の御陵、平城京付近の歌枕、佐保山付近の植物。
(第2と第13輯は資料館に保管されていない。)

 最近は、「いわゆる科学的なこと」とか、「国際的なこと」ばかりがややもすると強調され、一方で身近な自然や身の周りの社会環境についての知識や興味に関する教育は、どちらかというとおろそかにされてきたような気がする。確かに、現在の学生は高等な知識はもっているが、身の周りの自然や社会環境にはほとんど関心を示さないし、自主的に何か問題点を発見しそれを解決する意欲に欠ける傾向にあるが、テレビやファミコンゲームに熱中する。
あるいは、何となくつい手や目、そして頭がそれに向かってしまうといった方があたっているのかもしれないが。そのように部屋に閉じこもってばかりいた学生は、子ども時代にそれしか選択の余地のないように育てられたのであり、かつて身近な自然である公園や神社などの環境の中で、暗くなるまでどろんこになり夢中になって遊ぶことがほとんどなかったのであろう。
 さらに、現在でも学校や家庭、また大学でさえも、このような子どもや学生を育ててしまう傾向を助長するようになっているように思われる。このような状況も1つの原因であろうかと思われるが、生活科が新しく登場し、その教科目標の一部に「自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせる」というのが含まれている。
 私は小学校での生活科という教科に関する大学での授業の一部を担当している。私のその授業で、学生を奈良公園の自然や奈良の市街地の中にまず強制的に連れ出すことを第一の目標にしている。そして学生たちに実際にいろいろな自然や社会環境にふれさせたり、そこにある事象そのもの、および見方を解説することを通してそれらに興味をもたせるという、知識を与えることは別の困難なことに挑戦している。
 そのような立場にある私が、師範学校でかつて同じようなことが行われていたことに興味を覚えたにしても不思議はない。その中でも、このような授業を行うようになった経緯や資料作りについてが特に興味深い。そこで、奈良県師範学校時代の当時の諸同窓生を探り、これについて伺ってみた。
 教育資料館の小柴幸文先生(昭和17年卒)は最も身近にいる人で、実際にこれを使って歩かれた1人であった。彼によると、当時の地理学の堀井甚一郎先生(故人)が中心であったろうというが、それ以外のことについてはよく分からない。私は2部で2年間しか在籍しなかったし、一部でも5年間在籍しており、当時の先生たちと親密な交流のあったと思われる少し先輩にあたる現同窓会長の川淵勝男先生に尋ねてみたらどうだろうかということであった。
 早速、川淵先生に電話で用件を述べた。思い当たらないが実物を見れば、思い出すかも知れないというので、佐保山町のお宅にお伺いした。先生は冊子を見ても私はこれらの存在を知らなかった、当然かも知れない、私はこれらが発行される前年の昭和11年の卒業だからとのことだった。
 それではということで、親切にもう少し後輩に当たるかつて附属中学校に勤務されていた石川利和先生などに電話で尋ねて下さった。しかし、「私もそれに参加した、その冊子を知っている」というだけで、それがどういう経緯で作られ、誰が担当して作られたかについては分からなかった。川淵先生や、やはり当時の学生ではこれ以上のことは分からないであろう、当時の先生に尋ねるしかないということで、現在も健在なかつての先生で、東京に在住の水戸部正男先生の連絡先を教えてくださった。
 手紙にすべきだろうとは思ったのですが、原稿締め切りを考慮し、失礼して電話をかけた。先生は歴史を担当し、地理学の堀井甚一郎と二人が中心になり、冊子を作ったし、学生と一緒に歩いた。「銃を持たないだけで、ゲートルを履いて行軍と同じであった」という話も聞けた。植物は必要に応じて、当時の博物学の鶴丸鶴作先生に教わったのではないかな。また、経緯については、昭和12年に磯野清奈良県師範学校16代校長がいらっしゃって、「奈良は特殊な歴史的風土であり、それを生かした総合講座を作ろう」ということであった。
 奈良県師範学校50年史に、1年に3回、5学年の間に15回のこの総合校外教授計画が掲載されており、今回の資料の作成順序とよく合っているが、50年史にはそれが実行された時期についてはふれていない。しかし、諸先生方から伺った話から推測すると、どうもこれらの冊子が発行されている順に昭和12年から17年の間、1年に3回、合計15回だけこの校外指導が行われたようである。
 さて、これらの資料は現在でも大変有用であるので、これらを用いて現在の学生たちと同じコースを歩いてみる機会をぜひ作りたいと思っている。

 また、これらの指導案、教育資料館に保管されているのは第15輯迄であるが、第2輯(高野山、五条方面)と第13輯(飛鳥巡り)が欠けている。私は授業や研究のために、ワープロで打ち直し、近いうちに復刻させたいと思っている。そこで、どなたかこれら欠落の部分をお持ちの方は、ぜひ寄贈をお願いします。もちろんコピーを取らせていただけるだけでも大変にありがたいのです。ぜひ資料館の方へ御一方下さい。
 最後に、これをまとめるにあたって、突然な電話、訪問によるにもかかわらず、この指導案に関する情報や親切な助言をいただいた次の方々に感謝の意を表します。石川利和、川淵勝男、小柴幸文、水戸部正男の各先生(あいうえお順)。
 (理科教育)


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