戦後美術教育の軌跡と変遷



本宮小学校(福島県)の美術教育(昭和27年〜31年)

跡見女子大学名誉教授 鈴木五郎

(一)

 ここに展示された作品は、私が1952年(昭和27年)福島県安達郡本宮町本宮小学校の図工専任教員として就任、1956年(昭和31年)までの5年間における美術教育による作品である。その間、3学年を2年間担任し、養護学級の補充として6ケ月間ほど担任。ここに展示された作品の中で鋳物工場を題材にしたものなど私が担任したクラスの子どもの作品である。また、私が図工専任であったので、他のクラスの指導を担当した作品である。特に「いろりと母親」「靴屋の店」など6年生の作品は、4年生のときから積み上げてきたクラスのものである。また、当時、本宮小学校を中心にした美術教育運動に参加したサークルの人たちの指導によるものが含まれている。これらの作品がどのようにして生み出されたのか、振り返ってみたい。


(二)

 本宮小学校における5年間の美術教育は戦後の民間における美術教育運動の軌跡と変遷の渦であった。その一つは創造主義美術教育運動の導入からはじまる。創造主義の美術教育は美術評論家の久保貞次郎、画家の北川民次、室靖、等が、戦前から受け継いできた描き方主義による写生主義から子どもを解放し、創造力、個性の育成を提唱した。それはオーストリアにおけるウイン美術学校で児童美術実験工房をつくったチゼックの教授についてイギリスのトムリンソンが述べたことばがある。

 チゼックは信じた。一人一人の子どもはみな独特なものをもっている。だか ら子ども自身の技術を発揮させるように、はげますべきである。したがってす べてのどんな子どもにも、技術教育の頑固なコースを強制してはいけない。大 人の考えや、方法を子どもの上に押しつけるのはすべてよくない。子どもたち は材料を自由に選択し、自由に表現し、創造することができるようにされねば ならぬ。自分で材料を選んでする子どもの表現は子どもの生まれつきもってい る法則にしたがって成就するように許されるべきである。その発達は大人が人 工的に早めたり、大人の考えを満足させるために、無理に変えたりするべきで はない。
 とくにいちばん重要なことはなにか。それは子どもの努力をいかなることがあっても決して笑ってはいけない、ということである。そして批評は子どもに同 情的に与えられねばならない。いわゆる子どもの巧みさを誉めて創造的意欲を 犠牲にすることがないよう注意すべきである。註(1)

 この考え方は戦後のわが国の美術の方向を決定づけた。
現在の時点では、こうした考え方は当然のようにうけとれるが、当時の本宮小学校は大変な混乱を引き起こした。教えないでどうするのかといった疑問が相継いだ。
 更に創造主義は

「創造的な表現は子どもの抑圧されたコンプレックスを解放しなければならない。」
「日本の子どもは抑圧が欧米の社会よりひどいために、創造的欲求をたえず打ちくだかれ、早いものは小学校に入る頃にすでにへとへとになっている。おそくとも小学校5・6年になると、内部的な無意識の葛藤によって充分積極的に 活動できない。それで小学校上級になると、彼らの絵が輝きを失ってくるのだ。 問題は抑圧にあるのではなかろうか。」註(2)

こうした呼びかけに応じて私たちは次のような主旨を校内で宣言した。

  1. 子どもの心理的発達段階に応じた指導をする
  2. 技術指導をいっさい排除する(教えないということ)
  3. 写生をいっさいしない
  4. 教師は子どもの絵に干渉しない
  5. 子どもの描いた絵はすべて平等にとりあつかい、つとめて激励する
  6. 劣等感によるコンプレックスから解放する
 こうした考え方に基づいて美術教育が展開されたが、思うように進まなかった。子どもは自由に好きなように描いているが、いままでの概念をひきずって写生主義的な形式から抜け出せない。自由な解放された教室とはどんな教室なのかなど、図画の指導といえばお手本の指導でしかなかったところに「解放」をぶっつけたのである。
 若い教師達は素早く立ち直って、自由なでたらめ描きや落書きのようなものをどんどん描かせた。子どもたちはその自由さに喜んだ。無秩序、混乱、そして、その先がみえない不安感を持ちながらこの実験の展開だった。
 ようやく次第に落ち着きをとりもどして、でたらめ描きの中にも形が表れ、色彩が選ばれるようになってきた。1年後にはいままでとは異なった作品がではじめたのである。技術中心の図画教育から子どもの自由な心理の解放表現に統一がみえだしたのである。
 新しい美術教育の実践も2年目には創造主義美術教育のゼミナールでのコンクールではいい評価を受けるようになった。


(三)

 しかし、本宮小学校での実践がすすむにつれて創造主義美術教育に疑問が生じるようになる。それは抑圧の心理の解放といっても、それは観念の上では理解ができるのが実際は方法論がないのではないか。心理の解放がそのまま創造的表現にはつながらない。美術教育(造形)そのものの固有の質が問題なのではないか。古い美術の概念を保持したままでの心理の解放はない。教室で新しい作品を生みだした教師たちは、子どもを解放すると同時に新しい造形の内容をつくりだしたといえる。そのことに気づきはじめたのである。
 また、心理の解放だけでは表現にはならない意識と表現の問題、つまり、自己を対象化する認識がなければ表現は達成できない。
また、子どもは何を描くのか、自己の興味の対象を描くだけでなく、自己と深くかかわった生活現実から自己の価値観に基づいたテーマを描くべきではないか。更に創造主義はヨーロッパやアメリカの子どもの作品をモデルにしていて、それがパターン化しているのではないか。など次第に生活現実とのかかわりによる表現が強調されるようになった。


(四)

本宮小学校の美術教育は次第に生活綴り方の理論の方法に視点を据えるようになる。石田和男の指導した『夜明けの子ら』註(3)、無着成恭による『山びこ学校』註(4)の実践は私たちの生活画の実践に大きな影響を与えている。ここに石井敏雄(中二)の詩がある。

雪がコンコン降る
人間は
その下で暮らしているのです
 この詩は読み過ごしてしまえばそれだけの詩のようであるが、石井敏雄君はこの詩をなんとなく書きあげたのではない。
 無着成恭は『山びこ学級』のあとがきで次のように述べている。
 私はこのような教育を営みながら、新しい時代の息吹きを感じるのでした。新しい道徳が生まれるのを感じるのでした。二宮金次郎の薪を背負って読書する像の前で「忍耐」と「勤勉」をたたきこまれ「人が八時間働くなら、十時間働け」と教えられてきた私は、この子どもたちの、そのような「忍耐」や「勤勉」の中にかくされているゴマカシ、即ち貧乏を運命とあきらめる道徳にガンとして反抗して、貧乏を乗り越えていく道徳へと移りつつある勢いに圧倒されるのでした。

 石井敏雄君の一編の詩に山元村の生活が包み込まれている。そこには村の人たちの苦しみや喜びを共同するものとする認識があったということである。そこにこうした壮大ともいえる詩が生まれたのである。村の現実の中に生き続け、その現実にすっぽりとはめ込まれている石井君ではない。その現実を自分の理想とイメージの中に解体して新しい現実を発見し、創造しているのである。それこそ解放なのだ。
 このことは私たちの美術教育に方向を与えたことは確かである。

作品「靴屋の店」、作品「いろりの母と子」は本宮小の生活画である。創美の北川民次のメキシコ児童画の実践は生活画の影響を強く受けたものである。
 この子どもたちは五、六年生の二年間、青木米次郎、桑原尚が学級担任、私が図工専科であった。それぞれの学級は担任をはじめた時から、「禁止事項をできるだけつくらない」「命令をしない」「子どもに対して不機嫌な態度をとらない」「毎日の授業をおもしろく工夫する」と決め、実践してきた。
 子どもたちは私を五郎ちゃんと呼び、青木を青ちゃんとか米ちゃんとかいった。
 自由解放の教室はたちまち無政府状態になった。紙屑は散乱する、鉛筆の削りかすはそのまま床に散らす、絵はほとんどなぐり描き、掃除はしないまま帰ってしまうといった有様だった。父兄からの不安の声が校長に届くなどあったが、子どもたちは楽しんで学校へ通ってくる。こうした状態も二学期の中頃から落ち着きを見せはじめた。落ち着くに従って教師は子どもたちに課題を出すようになる。日常の生活をテーマにした作文を書かせる。子どもたちは父親に叱られたとか、母親の家事労働のこととか、百姓の仕事はダラ汲み(糞尿を肥料にする仕事)が臭いから嫌いだ、といったような作文を書くようになる。
 現実の生活と関わったことを見つめるようになる。六年生になってからはますます教室は落着いてきれいに清潔な教室になっていった。教師は掃除について掃除について一度も命令したこともなかった。誰かが掃除をするようになったのである。授業はなごやかな空気がただよって楽しかった。
 絵の時間は自分でスケッチをしてきたものを土台にして描くようにした。特別に技術的な指導はしなかったが、次のようなことを課題とした。

  1. 目で見たことをそのまま描こう、汚いところでもそのまま汚く描く。美しく飾ったりはしない。
  2. 一つ一つたしかめて描く、働いている人はどんな道具でどんなふうにして働いているか、じっくり見つめる。
 作品「靴屋の店」は縦四六センチメートル、横六一センチメートルのベニヤ板に胡粉を膠で溶いて下塗りしたものに水彩絵の具で描いたものである。デッサンを丹念にして描きあげたものである。父親の後に下っている靴の修理のための道具がていねいにしっかりと描いてある。
 客がお茶をご馳走になりながら世間話をしている。母親がちょっと足をくずして座っている。父親が懸命に靴の修理をしている。ありふれた日常生活の中に題材を見つけてそれを克明に描きあげるエネルギーは何だったのであろうか。
 子どもは教師に提示された課題に沿って題材を自分の家にした。それをスケッチし、観察をすることによって、いままでに気づかなかった父母の生活現実を認識するようになった。またその認識によって自分の表現をたしかなものにしている。

 作品「いろりの母と子」もベニヤ板に水彩えのぐで描いたものである。夕刊の新聞配達から帰った兄と鍋を暖めようと竹筒の火おこしで炭火をおこしている母の姿が克明に描いてある。母のしぐさの特徴や、兄がお腹をすかしえて帰ってきた様子、驚くべきことに、いろりの灰までがよく観察され、リアルである。
 これらの生活画はその自由表現を通路として、自分の関わった生活現実に対する共感や認識がこのような表現を獲得させたのだと思う。
 ではこの子どもたちが、自由解放の無政府状態ともいえる無規則な教室からどのようにして自己規律を形成したのだろうか。

  1. 絵を描くことによってものの捉え方や感じ方を獲得したということ。
  2. 表現することは自己の自発的、内発的な欲求に基づく自由がなければならない。子どもたちはその内的な自由を獲得したということ。
  3. 表現には確かな自己の判断や選択力を必要とする。また表現の活動は自己自身を客観化しなければならない。そのことによって自己制御が形成されたといえる。
  4. 生活現実を見つめて、その現実を認識することによって自己の中に価値観が形成されたということ。
  5. 表現の活動はきわめて個別的な欲求によって達成されるが、表現された作品を媒介にして学級集団・教師との交流ができ、作品のリアリティーを共感し創造を一体になって体験しているということ。

 もう一つは、子ども達の家庭での生活との関連である。この時代の家庭生活はほとんどが貧しかった。さらに戦後から引き続いて封建的な習俗が残っていた。父親の存在も大きかった。子どもたちは家事の手伝いをさせられる。朝夕の食事は家族揃ってする。家では厳しい躾や生活に堪え、学校では自由な解放的な空気の中で自己を形成してきた。学校と家庭、そしてその地域社会との間で有機的なバランスをつくりだしたのではないか、そのことがこうした生活画の表現を生みだしたのではないかと思われる。註(5)

 以上が、本宮小学校の美術教育の軌跡と変遷の概要である。ことばが足らなく理解できない箇所が多かったと思うが、子どもたちの作品が全てを物語ってくれるのではないかと思っている。


  • 註(1) トムリンソン著 久保貞次郎訳『芸術家としての子どもたち』美術出版社 1951年
  • 註(2) 久保貞次郎『雑誌みづえ540号』児童美術 1951年
  • 註(3) 石田和男編『夜明けの子ら』春秋社 1952年
  • 註(4) 無着成恭『山びこ学校』百合出版 1952年
  • 註(5) 岩波講座『教育の方法-7-美の創造と享受し解放と認識戦後の民間美術教育運動から』鈴木五郎 1988年

I 子どものくらし・家族のくらし


II 農家のくらし


III 工事や工場のしごとをする人たち


教育資料館-目次