奈良絵本

 奈良と奈良絵本
学長 赤井達郎  
 猿沢池の近くに絵屋橋という小橋がある。『奈良坊目拙解』によれば、この元林院町あたりは、興福寺の別院があったところで、竹坊(たけのぼう)と称する絵師の家が二三軒あることから絵屋町とよぶという。お伽草子や幸若舞を内容とする近世初期の絵本を、奈良絵本と呼ぶようになるのは、明治中ごろからのことであるが、魚澄惣五郎はこの絵屋町の存在から「寺社に付属した画家は、独立して職業的町人となって現われる。もと春日絵所の人々は俗にいう絵屋町を作り、遂にはお伽草子などの絵を書き、奈良絵本の職人も出来たであろう」(『古社寺の研究』)とのべ、これがほぼ定説(『広辞苑』)のように考えられてきた。
 奈良絵本は、おおよそ横本・縦本・大型縦本の三つにわけられ、その造本もさまざまであるが、紺紙に金泥で秋草などを描き、朱の題簽をもつものが多く、嫁入本ともよばれたという。その一ページ、ときに見開き二ページの絵は、泥絵具をもちいたいわゆる奈良絵風のものと、細密華麗な作風のものとがあり、ともに天地にすやり霞をつけた定形の構図をもち、朱、緑などあざやかな色彩と金銀箔・泥の使用がめだち、愛すべき日本のミニアチュールとよぶことができよう。
 奈良絵本の絵の裏には、その絵を挿入する箇所を示す番号などを記すものがみられ、詞書とは別な職人的絵師によって描かれたことがうかがわれる。室町時代末ごろから京都・堺・奈良にあらわれる絵屋は、短冊の下絵から廻り燈籠の絵まで、さまざまな仕事をしており、奈良絵本の表紙の金泥絵は短冊の下絵と酷似するものが多く、絵屋と奈良絵本はごく近い関係にあったと考えられる。京都では室町末ごろから町物・下品の扇とよばれる扇が作られており、扇で知られる城殿には、お伽草子的な内容をもつ絵巻物を作る草子屋の存在が認められる。奈良の絵屋は仏画の制作のみならず販売にまでかかわるものがあり、竹坊正秀・栄秀は「当麻寺縁起絵巻」の制作にあたっていることが注目される。なお、天理図書館蔵の奈良絵本『いはやものがたり』などには「南都連歌師紹九」「和州十市遠忠」といった古筆家の極め札がみられ、奈良の絵屋も奈良絵本を作る条件をそなえていた、とみてよかろう。


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