梅村佳代 奈良教育大学名誉教授
(現職時:学校教育教育学・教育史 教授)
[出版年]不明
[版元]不明
[体裁]袋綴、寸法は縦横215ミリ×155ミリ、14丁、1面4行、1行10字、かな付き[内容]
商売往来の内容は「凡商売持扱文字」で始まり、取遣り日記、証文など商売の取引に必要な文字、数字、証文、日記の類、大判・小判から灰吹に至るまでの金子(貨幣)の名称、貫目分厘毛など天秤・分銅の基準、粳、糯米、粟、稗などの雑穀類の名称、廻船に必要な知識として積登・問屋の蔵入置などの用語、運賃や水上口銭を差し引いた相場値段の決め方、金襴繻子緞子などの絹布の名称、肩衣、羽織など布を仕立るに必要な名称、紺や花色などの染色の名称、染入紋の種類と名称、武士の用具について弓、矢、鉄砲など21種類の武具類の名称や彫物、細工の種類と名称、唐物・和物の家財として珊瑚・瑠璃や硯箱・文庫など26種類の名称、雑具として葛籠、箪笥など46種類の名前、薬種・香合類として伽羅・麝香など41種類の名前と粉薬、練薬などの薬の形態、山海の魚鳥として鶴・雁や鯛・鰯など46種類の名前、最後に商売の家に生まれた輩は幼稚の時より手跡・算術を行うを肝要とし、歌・連歌・茶湯など芸能の稽古事は家業の余力ある時折々に心掛けるをよしとし小唄・三味線などの遊芸事、泉水・築山などの家宅の造作などは分限に応ずるをよしとする。全て浪費せず、高利を貪らず、見世棚を奇麗にして柔和に応答し天道の働きを恐れるものは富貴繁盛子孫栄華と倍々利潤疑いなしとする。以上の内容は庶民生活に必要な知識と名称を身近に獲得でき、さらに家業第一、余力学問と分限に相応した在り方を説いているなど、商人のみならず、子どもの手習い教科書として農村においても各地でよく読まれ使用された。[備考]石川松太郎の研究によれば商売往来は実業類商業型に分類され、さらに商売往来系として手本系・読本系・注釈本系・絵抄本系・特殊系の五系統があるとされ、本書は読本系にあたる。
商売往来の原作者・成立起源については、例えば「続々群書類従」では「本書作者詳ならず−−宝永以後享保以前の作ならんと思考せらる」とあるように作者は不祥、成立起源は宝永以後享保以前つまり1704年から1735年までの頃とされる。
しかし石川謙・石川松太郎によれば原型の成立は元禄7年(1694)と推定され、少し逆上って考えられている。作者も「堀流水軒である。惜しいことに流水軒の経歴や事跡については、かれが上方の手習師匠であったということ以外には、よくわからない」(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年7月 雄松堂)と堀流水軒説をとる。同時代の往来物の宣伝広告にも商売往来の作者を堀流水軒として扱っている書もあった。作者は堀流水軒とする説は有力であると判断できる。
[出版年]不明
[出版元]不明、作者は又玄斎南可識
[体裁]袋綴、寸法は縦横170ミリ×115ミリ、31丁、1面4行、1行10字、かな付き、絵入り、講釈付、彩色有り[内容]商売往来の定型的な内容のすべてに彩色された絵が付され、同時に講釈も付されている。絵は細密・美的であり彩色も多色で奇麗である。彫りについても職人の高い技を伺わせる緻密なものとなっている。絵に付されている説明文も簡潔明瞭である。例えば墨の部分についての説明では墨二本の絵の下の部分に「墨も和漢色々あり奈良上品也」とある。[備考]商売往来絵抄本系統の本である。高橋幹夫『江戸商賣絵字引−−絵でみる江戸の商い−』によれば「商売往来絵字引」は初編と二編があり、初編は文政末から嘉永頃(1829〜53)、二編は元治元年(1864)頃と推定されている。本書は初編にあたると考えられるので、成立時期は幕末の文政から嘉永期ころとみてよいであろう。
[出版年]文化5年(1808)刊行
[出版元]山城屋佐兵衛(江戸)版
[体裁]袋綴、寸法は縦横250ミリ×165ミリ、14丁、1面5行・1行7字、頭書、絵入り[内容]商売往来の定型文に頭書において本文の意味を深めるための絵や解説が付されている。絵入りによる読者の興味付や視覚による理解を促すこと、基本となる語彙の解説がなされ、師匠にも便利な書として編纂されている。[備考]
群書類従所収本と比較すると内容構成の基本に変化はないものの順序の転換や削除などがなされている。近世初期に成立したとされる原本内容も時代や生活の変化に対応して微細な訂正や改変が施され、より理解されやすく工夫されている。
[出版年]
[出版元]嘉永新版、靖共閣(大坂)版、富士屋東遊子校正
[体裁]美濃紙、袋綴、寸法は縦横210ミリ×150ミリ、23丁、1面4行・1行8字、仮名付き[内容]
商売往来の定型文に右側に平かなが付され、左側に漢字と片仮名による講釈つまり解説が付されている。冊子の後半には「商売往来講釈」として7丁にわたって商売・員数・証文などの語彙の解説がなされている。[備考]
[出版年]明治4年(1871)刊行
[出版元]著者橋爪貫一、画加藤雪洲
[体裁]袋綴、寸法は縦横177ミリ×120ミリ、26丁、1面4行・1行8字、片仮名付き[内容]
編集方式の特徴として本文の商品語彙について漢字・平かなまじりの注解、図解がなされている、また商価の記号をアラビア数字・ロ−マ数字・漢数字が比較対照されている、アルファベットの大文字・小文字の筆記体が書かれている、頭書に本文の語彙について英語と片仮名が対照されて書かれ、辞書の機能を果たしている。内容は英吉利国にはじまる貿易相手国の名前、天気・風雨の測量器具、日本の諸港に寄港する軍艦・商船など船舶の種類、煙筒や罐などの船の構造や部品の名称、軍艦に備えられた兵器や道具類の名前、外国の旅館・商家の職業人の呼称、貿易で扱う商品名について布の素材、衣服、日用雑具、酒類、肉類とその道具、筆記道具と照明器具類、馬車などの乗り物道具類、農具、建築道具類、彫物道具類、穀類、野菜類、果物類、獣類、鳥類、魚介類、虫類など多岐にわたる物質や商品の名称が絵入りで紹介されている。[備考]明治以降、とりわけ明治5年〜6年(1872〜73)にかけて文明開化期には「学制」公布による近代学校教育が始まり、その教科書としても採用されたこともあって、多くの流布数をみた。内容は江戸時代の往来物の編集方式を継承しながらも、語彙や単語が欧米の生活用具や輸出入の品目、商法、商社、貿易に関する知識の摂取に必要な内容に変化している。石川松太郎の研究によれば、明治期の商売往来は商売往来系統の第七類にあたる派生・発展した類型とされている。とりわけ海外貿易用商品や語彙類を集めて編集した橋爪貫一の作品が最も多く、その原本は明治4年(1872)9月発刊「世界商売往来」(東京、青山清吉梓)とされる。発行書林は東京・大阪の13書林にわたる。
[出版年]明治5年(1872)刊行
[出版元]雁金屋清吉(青山清吉)版(東京)、出版所は海軍兵学寮出版所、作者は書かれていないが橋爪貫一と思われる。[体裁]袋綴、24丁、寸法は縦横177ミリ×120ミリ、1面4行・1行8字、片仮名付き[内容]
巻首にには日本人と欧米人が貿易港で取引する絵図、各国の貨幣比較、頭書には本文語彙の日本語と英文対比がなされれている。そしてロ−マ数字やアラビア数字、書籍の著者の人名や表題などの弁別や知ることは緊急の事としている。次いで各国輸出入の品目、例えば絹・毛織物・薬・日用道具・野菜類・鳥獣類の名称が列挙されている。[備考]東京・大阪・京都の26書林が扱っているなど、かなり多く流布していた。
[出版年]
[出版元]東京の青山堂発刊
[体裁]袋綴、寸法は縦横177ミリ×118ミリ、16丁、1面4行・1行8字、片仮名付き[内容]
貿易港の荷造り風景の絵図、英国商売用の尺度と度量衡、頭書には英語の単語和訳がある。本文は商取引用語、交易商品名称、職工人の職種名、彩色の種類、貨物仕立ての国名と交易品名、各国商船の旗章が絵入りで示されている。[備考]この書を扱ったのは大阪・東京の12書林であり、多数の出版がなされた。
[出版年]明治6年(1873)官許
[出版元]黒田行玄閲、横田重登編、□川半小画
[体裁]袋綴、寸法は縦横225ミリ×155ミリ、55丁、1面4行・1行7字、平かな付き、頭書・絵入り[内容]万国交易の大意、諸国産物、諸国金山、三物字類、諸国旗章大略、税則大意、貨幣大略、年暦時日大略、工作場、薬品大略、外国商旅、外国道程から成り、当時外国貿易に乗り出した日本において庶民の視点からみた必要とされる知識や語彙を取り上げている。頭書には19項目にわたって本文内容の理解を深める解説が付されている。[備考]東京・大阪・京都の9書林が扱い、この本も全国的に多く流布した。
[出版年]明治5年(1872)官許
[出版元]翠栄堂半山(大阪)編、赤志忠七(大阪)版
[体裁]袋綴、寸法は217ミリ×152ミリ、37丁、1面4行・1行10字[内容]巻首に地球の東半面図と西半面図があり、五大州の広狭人口総数大略がある。本文は「世界の状」として地球の自転と公転、航海して入港する大陸名、船、三府七〇県八省、兵器、交易場所、貨物の良否、織物、衣服の仕立様、手遊びの品、工匠の用いる道具、馬屋、農具、金玉石の類、宝石、飲食の品、菓子、茶、薬種、植物、草汁の類、草木、商法会社などの名称から構成されている。[備考]大阪の6書林が扱っている。編纂、版元、扱う書林も大阪であり西国地域に多く流布したと考えられる。
[出版年]明治6年(1873)5月官許、同年6月発刊
[出版元]作者は住正太郎(飛騨高山)、欽英堂(大阪)此村庄輔版
[体裁]袋綴、寸法は縦横217ミリ×150ミリ、78丁、1面3行・1行6字、平かな付き[内容]江戸時代の「商売往来」の構成や語彙類の基本を最も多く踏襲して編集されている。「商家日用ノ文字」と共に、その随所に海外の珍器・機械・衣服などの概略を加味して構成されている。文字も大きく習字の手本としても意識されている。[備考]東京、大阪の21書林が扱い、全国に多く流布したものである。
[出版年]文化12年(1815)12月刊行
[出版元]河内屋喜兵衛(江戸)版、作者は積玉圃
[体裁]袋綴、寸法は縦横222ミリ×152ミリ、12丁、1面5行・1行7字、頭書・平かな・絵入りである。[内容]貨幣両替の問屋、諸国廻船、景気変動の要件、仲買や新規の客の思い入れの見極めと捌き、値段の決め方、運送に気を配る事柄、賃金、懸けの催促、日常の生活の心得などから構成されている。文体は記事文体と語彙類文体のうち、記事文体にあたる。[備考]石川松太郎の分類では実業類・商業型・商売往来系より派生・発展したものに該当する。さらに派生・発展類型は7区分されるが、その第六類「問屋・本屋・八百屋・小間物屋など商業上の一つの業種を対象として作られたもの」に当てはまる。この分野は「江戸時代の商業活動における分業が急速にすすんでいく状況に応じて多種・他方面にわたって作られ普及していった」とされる流布数も多い本である。
[出版年]年代不祥
[出版元]古銭屋・伏見屋嘉兵衛(大坂)版、龍草堂筆・清婁靖斎述
[体裁]袋綴、寸法は縦横223ミリ×155ミリ、33丁、1面4行・1行8字、仮名付[内容]巻首に船荷の積み降ろし、薬種店の店先風景、寺子屋の手習い風景の絵がある。本文は「夫商賣之業躰雖有種多」に始まり、朝は早起きして掃除にはじまる準備、番頭・手代・小僕に至るまでの篤実律義の振る舞い様、代銀取引、呉服類、諸国の名産、衣装装束、産着、裁縫、染物、小紋、縫箔、紙、武具、家財雑具、薬種、魚鳥の名称などが列挙され、正直は「神明の憐を蒙り家門長久疑い」無きものとして締めくくられる。[備考]石川松太郎の分類によれば実業類・商業型・商売往来系より派生・発展した形態の第五類「ひろく商人の日常生活や活動に必要な心得・教訓について記した」内容とされる。農民教訓書に較べて商人の教訓書や心得書は少なく簡潔明瞭な文章を特色とする。商人の場合は商家それぞれに家訓や店則を定めているからであろうか。
[出版年]年代不祥
[出版元]文江堂吉田屋文三郎(江戸)版、岳亭註
[体裁]袋綴、寸法は縦横175ミリ×113ミリ、21丁、1面4行・1行7字、仮名付、絵入り[内容]内容編成の特徴は編集の上では「商売往来」を手本としながら、中味は「田舎往来」に類似して作成されている。巻首には学ぶ意義が述べられ、本文は「凡百姓取扱文字」で始められている。続いて農業耕作の道具、新田開発の地均し、検地による入持主・名主の石盛の確定、水損・旱損の手当など逐一目論見帳を以て分別すべきとする。肥は干鰯・油絞粕など10種類以上あげられている。米つくりの要点、検見と年貢の念入りな御蔵納め、巡見・遵行の節の伝馬や助郷、船や川渡り、往還道路の掃除、荷物の貫目、駕篭などの乗り物の基準、公儀への奉敬、家の造作、木綿織の道具などについて述べ、糧は飢饉を考え「不渇様心得第一」とした。茶菓子や客人へのもてなし、野業の暇に行うこと、牛馬の飼料、牛馬の売買、名所古跡、菱垣廻船などについて述べられ、「みだりに山林の竹木を伐採せず隠田をいたさず正直第一とすれば子孫富貴繁盛家門平生となり神仏の冥慮に叶う」と締めくくられている。[備考]この本は実業類・農業型・百姓往来系に属するものである。この系統は宝暦8年(1758)岩崎矩清の選、江戸の須原屋茂兵衛によって上梓された「田舎往来」が原本となっている。その普及により「田舎往来」の影響をうけて明和3年(1766)に禿筆子作、江戸の鱗形屋孫兵衛版により発刊されたのが「百姓往来」である。したがって本学のものも明和3年以後の発刊となるが詳細は不明である。この「百姓往来」は流布が著しかったので重版・異版も多かったようで石川松太郎の調査では70種類に及んでいるという。本学のそれもそのなかの一つであり、絵入抄本系統にあたる。内容的にも「田舎往来」が農民の労働や生活に関するあらゆる語彙を集約して編集された70丁の厚手の本であるのに対して、「百姓往来」は中本で小冊子の体裁にして、庄屋・名主・組頭などの村方役人層のみならず、実際に農業労働を担う小農民のおこなう労働内容や道具など必要な語彙を中心として編纂されたものであったので流布も著しかった。(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年7月、雄松堂)
[出版年]年代不祥
[出版元]文□堂(大坂)版、作者は江藤弥七(豊後)・荻田篠夫(備中)、三木平七梓(大坂)
[体裁]袋綴、寸法は220ミリ×152ミリ、27丁、1面4行・1行7字、仮名付[内容]文の最初は「夫農ハ国家の基本食貨の二ツに関係する所一大事にして」と始まる。洪水旱魃の難を凌ぐ準備、開墾、家宅や居住地及び閑地の植物、畠物、薬種、樹木、種渣苗代にはじまる米のこしらえ、農具、全国の五畿八道八十国の名前、八十五州郡村落大区小区、区戸長村吏邑正、三府七十二県、官員、政庁、民工の名称、その他社祠神官、儒者、医者などの職業人の名前、そして最後に農家に生まれる者は、文学書や数の稽古にはげみ、言行正直にして信誼を違わず、「謙退」すれば「おのづから子孫繁盛天賜之歓娯を窮め自主自由の権ほしいままに執るべきこと疑ひなし」と締め括っている。明治の新時代への対応と農民にとって有益な多面的な知識を集めたテキストである。[備考]明治期の出版と思われる。皇漢洋書籍處9書林とあり、東京、京都、江州彦根、播州明石・姫路、泉州堺にわたる。広い読者層を伺わせるものである。この本は実業類・農業型・農業往来系に該当する。農業往来系の基本型は宝暦12年(1762)、江藤弥七により選作されたものが天明5年(1785)に大坂の三宅吉兵衛・北尾善七により合梓された「農業往来」が最初で基本である。この型は広く長く流布したことにより、明治期には類書が多く発刊された。本学のものは江藤弥七作「農業往来」を基本型とした明治期の類書のひとつと考えられる。
[出版年]明治3年(1870)4月官許
[出版元]青松軒(東京)版
[体裁]袋綴、寸法は縦横185ミリ×125ミリ、20丁と4丁、1面4行・1行9字、仮名付[内容]最初に「夫地方者国之根本也」で始められている。続いて検地、検見、道具、廻船、普請、凶年不作による難渋、参勤交代、訴状、身分職分の名称など、語彙は簡潔であり、農業生活に必要な一般的・日用的なものをくまなく取り上げている。[備考]東京の17書林の発刊がなされている。石川松太郎の分類によれば実業類−農業型−農業往来・百姓往来の派生・発展系統の第八類に該当する。明治期になり新時代に対応して地方(ジカタ)に関して新たな内容で編集されたものである。「地方往来」には明治7年発刊の橋爪貫一作による「地方往来」(ジカタオウライ)もあるが、本学のものは明治3年の市村蒙補正・筆の系統の「地方往来」にあたり、しかも原本と同年発刊本である。
[出版年]文化13年(1816)刊
[出版元]森屋治兵衛(江戸)版、撰者は東里山人(江戸)、江戸の岩戸屋喜三郎梓
[体裁]袋綴、寸法は縦横177ミリ×120ミリ、14丁、1面5行・1行8字、仮名付[内容]編集方式は「商売往来」と同様であるが、内容は神社仏閣の建築物の名前、建築構造、構造の各部所の名称、建築用材、道具の名称など建築造営にかかわる用語が列挙されて平かなが付されている。頭書には絵入りで「人倫名目字盡」などが取り上げられている。また本の最初には聖徳太子像と豊臣秀吉の城普請の時に采配を振る棟梁の絵が挿入されており、それぞれの説明では柱建職人は聖徳太子が百済から呼び寄せ、50人の大工が来朝したとあり、他方の説明では普請の際に頭分となる才知すぐれるものを区別する目印に半纏を羽織ったとある。いずれも柱建職人とその棟梁の由緒を説明しようとしているものである。最後には「柱建為職分者、平生是越心掛、釘・鎹等ニ至迄少茂手抜無之様、正直ニ至営作、遷宮遷座之式、作法厳重ニ可相務者也穴賢々」とあり、柱建職人は手を抜かず正直に作法を厳重に努めるものであると締めくくられている。[備考]江戸の書物問屋が扱っていたとあり、江戸方面に流布していたようである。石川松太郎の分類によれば、本書は実業類・工業方・大工番匠に関するものに該当する。この類の代表的なものが本書にあたるものであり、石川は、建築に携わる諸職や用材、神社や仏閣、武家屋敷、城郭建築について必要な語彙を集約した内容をもつ「大工註文往来」の影響を多大に受けているとしている。
[出版年]明治9年(1876)8月
[出版元]吉田徹三編、玉石堂・文々堂版
[体裁]袋綴、寸法は縦横185ミリ×125ミリ、40丁、1面5行・1行7字、仮名付[内容]「凡土木営繕建築諸向に使用する文字の大概概略」として大工、棟梁や入札などの語彙、番匠、木挽などの語彙、屋根葺、石切、左官などの語彙など建築営繕工具に関するあらゆる語彙を集計したものである。[備考]石川松太郎の分類によれば実業類・工業型・工具、寸法に関するものに該当する。江戸時代や明治初年には道具あっての生活の糧であり、技を駆使できたのであるから工具は極めて大切にされていた。また相応の知識も必要であった。工具関係の往来物として代表的なものは文政6年(1823)に発刊された十返舎一九作「万福百工往来」(江戸の山口屋藤兵衛梓)であるとされる。大工・左官・船匠・仏工などの諸職に必要な道具が取り上げられ由来や用途・用法について解説されたものとされる(前掲、石川松太郎『往来物の成立と展開』)。本学のものは用途や由来の解説はなく、語彙類を集めた内容となっている。
[出版年]年代不祥
[出版元]菊屋七郎兵衛(京都)版
[体裁]袋綴、寸法は縦横250ミリ×175ミリ、21丁、1面5行・1行6字、仮名付、頭書絵入り[内容]「夫、士農工商者国家之至宝、日用万物調達之本源也」ではじまる。まず武門として職制の名称、武士にかかわる用語が説明され、武士は学問や剣術、兵法や軍学に通じ、書筆算術ができて努力してはじめて立身と加増がかなうのであり、祖先への面目も立つものとされる。農夫について農耕・農具に関わる説明がなされ、「農業は生民之大本也」とされる。次いで工匠人について大工道具の用語や名称について説明され、身の手柄は油断なき勉励にあるとされる。商人について商売用語がやや列挙されて、正直と和順をもった売買こそ子孫繁栄の道とされる。頭書には諸職の説明図が補足され本文の理解を深めるよう工夫がなされている。[備考]実業類・諸職型・諸職往来系に該当する。この諸職型の往来物のなかで最も古く、代表的なものとされるのが享保5年(1720)3月に京都の菊屋七郎兵衛が上梓したものとされるものであり、本学のものも享保5年以後に発刊されたこの系譜にあたるものである。(前掲、石川松太郎『往来物の成立と展開』)
[出版年]不詳
[版元]不詳
[形態]袋綴・寸法は縦横220ミリ×152ミリ、36丁、1面4行・1行8字、字体は青蓮院流[内容]
自遣往来ともいう。まず武家や公家の儀式や政事について消息往来のなかの十二月往来のように一年の月日を追って雅やかな世界をえがいている。特に冒頭の年始の祝賀の儀式と一月中の行事の様相が雅やかに叙述されている。次いで庶民生活に関わりの深い食物として菓子類、各地の特産物、酒肴類、海産物や、武士に不可欠な武具などの語彙、薬草・珍獣などについて「商売往来」の様式で庶民生活に必要な語彙や単語類として取り上げられている。そして続いて名所記として江戸の地理と見所とその由来、江戸城より東西南北の地理紹介とともに名所案内記ともいうべき内容となってる。[備考]石川松太郎監修『往来物大系』第53巻(1993年、大空社)には初版本である寛文9年(1669年)5月板「江戸往来」が採録されている。初版本の内容構成や順序、語彙の使用のされ方などと本学のものにおおよそ差異はない。ただ15丁の二行目の「海栗」の語彙が本学のものでは「海丹」となっているのみである。とはいえ本学所蔵本が初版本の発刊時期に近いかどうかは不明である。石川松太郎によれば「江戸往来」は夥しい流布数をみたこと、また江戸中期から近代初期にかけて類書が多く作られたとされていることから、多くの改訂版、修正本も存在したと考えられるが、本学のものは初版本系統にあたる位置にあるとみてよい。この「江戸往来」は石川松太郎の分類によれば地理類・地誌型・江戸往来系統に属するものである。地誌型の往来物で最も古いものは『駿府往来』(慶長17年 1612年)とされるが(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年7月109頁)江戸幕府が成立し、寛文期に成立した「江戸往来」は政治・経済・文化都市の様相を描いている点で人気を持続させたのであろう。
[出版年]文政9年(1826年)5月免許、文政10年(1827年)2月刻成
[版元]龍章堂閉斎(京都)書・英揚斎関牛(大坂)、出版は大坂の書林、塩屋喜助、塩屋長兵衛、塩屋宇兵衛[形態]袋綴、寸法は縦横は225ミリ×153ミリ、97丁、1面5行・1行8字、仮名付、[内容]日本の地理と特産物などについて五畿内・七道・六十六ケ国について順次説明されているものであり。紹介文によれば「日本六十余州の名所旧跡神社仏閣名物名産国郡風土石数などを四季十二月の文章につづり」とあるように十二月往来形式で正月から始められ各月の差出人と宛名が書かれている。内容は「商人日用の便利」と「幼童男女−−おのずから手習稽古の便ともなる」とあるように商人や成人の男女の日用書として、また子どもの手習い本として成立し、簡潔明瞭な日本の全地域の地誌の紹介となっている。まず山城国からはじめられ五畿内、七道・六六ケ国について叙述されている。大和国については「偖、大和国は十五郡、添上、添下、平群、廣瀬、葛上、葛下、忍海、宇智、吉野、宇多、城下、城上、高市、十市、山辺也、高四十四万四千百三拾石と承候、風土殊に忽也、山平均ニテ柴薪聊ニ候、往古宮古ニテ御座候得ハ名所旧跡多き中ニ茂、吉野、初瀬花盛ハ他ニ勝テ見事ニテ候、三輪之杉、春日社、三笠山、猿沢之池、其外旧都之名勝見所数多ニテ候、名物に於ハ奈良晒、三輪素麺、吉野葛等御求可く然る存奉候」とある。つまり大和国は15郡あり、高は444,130石、山は平均でかっては都であった。また名所や旧跡の多い中、特に吉野と初瀬の桜花は見事であり、名物では奈良晒、三輪素麺、吉野葛としている。[備考]石川松太郎の分類では地理類・地誌型・日本全域を対象とした往来物に該当する。全体の形式は四季折々の挨拶文様式を採り、各月ごとの宛名は以下の名前があがっている。浪速屋伊兵衛・菊川正治郎(正月)、錦織友之進・吉文字屋嘉左衛門(二月)、大黒屋庄兵衛・沖津仁三郎(三月)、春川長兵衛・灘屋五郎三郎(四月)、井筒屋喜蔵・飯原杢右衛門(五月)、夏見亘・小倉屋源兵衛(六月)、紙屋次郎左衛門・宇佐見数馬(七月)、治田六郎兵衛・鱗形屋傳右衛門(八月)、膝屋(ちきりや)又三郎・須藤専蔵(九月)、木村源吾・石川兵庫(十月)、池上屋市兵衛・岡田伊織(十一月)、富田屋慶蔵・宝莱屋亀太郎(十二月)
[出版年]不詳
[版元]不詳
[形態]袋綴、寸法は縦横245ミリ×180ミリ、45丁、1面3行(4行)・1行7字(13字)、[内容]まずは「善能寺往昔」からはじめられている。手書きで仮名まじりで「いか成人にましますか東寺の門前に稲を落し−−−弘法大師御逢なされ−」とある。稲荷大明神、熊野権現、天王寺などの名称や十一面観音など神社仏閣めぐりの説明がなされる。[備考]石川松太郎の分類によれば地理類・参詣型に属するものである。参詣型の特徴は神社仏閣への道しるべあるいは寺社の由来や縁起を説いたものとされる。
[出版年]不詳
[版元]松蔭堂書、版元藤岡屋慶次郎(江戸)
[形態]袋綴、寸法は縦横170ミリ×110ミリ、11丁、1面5行・1行7字、頭書、絵入、仮名付[内容]江戸の参詣本である。冒頭に隅田川で小舟で遊ぶ貴人の絵と紅葉散る龍田川を眺める男性の貴人と従者の絵があり「頭書龍田詣」とある。江戸の参詣地や由緒ある地として取り上げられているのは梅墓塚、大念仏、両国橋、駒形堂、木母寺、梅若丸の縁起、浅茅ケ原、妙亀比丘、鏡池、真乳山、鷹ケ崎、浅草寺、観音堂、上野山根本中堂、宮古河、弘福寺、田中の稲荷、石原の尼寺、太子堂、亀戸天満宮、吾妻の森、真間の継橋、羅漢寺、永代島八幡宮、安房、上総、筑波山、富士山、浅間嶽である。頭書は絵入りで「龍田詣」、十干十二支、十二月の異名、片仮名伊呂波が入っている。[備考]石川松太郎の分類によれば地理類・参詣型に該当する。この本も流布が著しく重版・異版が多かったとされている。この参詣型は近世後期に普及が著しるしかったが、庶民の生活力の向上につれ、参詣を目的とした旅も盛んとなり、読者層が拡大して流布がいちじるしかったのであろう。とりわけ江戸の参詣本は人気があったひとつであった。石川松太郎監修『往来物大系』所収の文化8年(1811年)刊「隅田川往来」と比べてみると内容構成、言い回しなども殆ど同じである。最後の文章において文化8年発刊本は「鹿子斑の余情右者」、「その刻み者」とあるのが本学のは「鹿子満だらに余情かぎり限なし」「其節ハ」になっているのみである。
[出版年]明治4年(1871年)9月刊
[版元]四方茂平著、四方春翠筆・北村友山刻、京都の書肆、銭屋惣四郎・山城屋勘助・吉野屋甚助版元[形態]袋綴、寸法は縦横225ミリ×155ミリ、1面5行・1行7字、30丁、仮名付[内容]冒頭に「地球ヲ平面ニ見ル略図」、頭注に客船図、印度海郵船停泊地と里数、地中海停泊所、万国物産大略など本文の理解を助ける注がある。本文は世界の全地域をアジア州、アフリカ州、ヨ−ロッパ州、北アメリカ州、南アメリカ州の五大州に区分し、帝国・王国・侯国あり地名も繁雑であるとする。まずは日本国長崎を出帆して西方に船を走らせ沖縄・中国からオ−ストラリア・ニュ−ジ−ランドを経て、東南アジア各国そしてインド・西アジア各国へ至る。続いてアフリカ諸国、トルコ・地中海を経て西欧諸国に至る。さらにロシア・イギリスを経て、北アメリカ州のアメリカ合衆国とその他の諸国、南アメリカ州諸国を経て日本に帰着する。以上のように世界を航海する行路に従って世界の地誌が説明されている。[備考]石川松太郎の分類によれば地理類・地誌型・世界全域を対象としたものとして位置付けられている。つまり世界を五大州ならびに六大州に分けて、その地域ごとに地勢・風土・習慣・政治・政体・人情・物産などについて概略を把握できるように編集されている。よく読まれ、「学制」以後の近代学校教育の教科書ともされた。
[出版年]明治5年(1872年)刊
[版元]伊藤桂洲著、書肆文苑閣・富山堂版元、東京・京都・大阪など80の書林で出版[形態]袋綴、寸法は226ミリ×150ミリ、65丁、1面5行・1行12字[内容]冒頭に洋服姿の人物が指し示した地球図を和服のこどもと女性がながめる絵がある。表題の副題に亜細亜州とあるようにアジア各国の地理、人口、首都、風俗、物産、港名、人民の性質について挿画付きで説明される。因にアジアの東にある日本については四島からなる帝国で人口は3500万人、首都は東京、物産は米、茶、漆器、利器などとし、人民の性質について「極て怜悧にして諸学術に進むこと敏捷」とある。アジア各国についても同様に簡潔明瞭に説明されている。[備考]石川松太郎の分類では地理類・地誌型・世界全域を対象とした往来物とされている。万国往来と類似しているが、本書の方がより詳細な内容といえる。
[出版年]明治5年(1872年)3月刊
[版元]井上蔵版、須原屋茂兵衛・岡田屋嘉七・山城屋佐兵衛・紀伊国屋源兵衛・若林喜兵衛(東京)、境屋仁兵衛(京都)、秋田屋市兵衛(大阪)の7書肆の出版、書は“をき田志乃布”とある[形態]袋綴、寸法は縦横220ミリ×150ミリ、57丁、1面3行・1行6字、[内容]序文によれば世界の地理、風俗、政体について小冊子に収め童蒙の便宜に付すとされ五人種図と東西半球図が示されている。本文は世界の地理、人口、宗教、気候、物産、政治体制について述べられている。文明開化の思潮に合致した内容が特色であり、開化した国とは「国君臣下を御する権あれども公明正大万国普通の国憲を立て平民たるとも其議に加ハり国侯の権にても衆説の理は勝つこと能はず故に万事偏頗なし」とあり、文明開化とは立憲政体と議会を持つこととしているなど明解な論理である。[備考]「学制」以後の近代学校の教科書としてもよく使用された。
[出版年]明治4〜5(1871〜72)年発刊か
[版元]荻田筱夫(備中)作、宝文堂(大阪)、北畠茂兵衛(東京)外全国19書林の発行[形態]袋綴、寸法は縦横220ミリ×152ミリ、55丁、1面4行・1行7字、仮名付[内容]冒頭に神戸港に停泊する船舶図に続いて、「世界乃富所産国」としてアジア州17ケ国、ヨ−ロッパ州20ケ国、アフリカ州16ケ国、オ−ストラリア州、北アメリカ州4ケ国、南アメリカ州10ケ国、総計68ケ国の地下資源、自然の動植物の生態などについて、人間の生活との関わりにおいて叙述されている。日本の名産名物については「地学往来」より詳細である。文明開化の思潮に相応したこれらの内容は「学問博く知慧あらば人に優れて富み栄ふ」とし、勉学怠らず「学習博く知慧明く有用無用を弁え」れば「自主自由心のままになる」とする。そして「沈思熟考発明し国家のために苦労する」事は「人道の本務」とあり、世界の産物の知識の学習を奨励している。[備考]石川松太郎の分類では地理類・特殊型に属する。特殊型とは一定の対象を選んで地理的記述がなされているもので、特に物産を取り上げて編集したものが多数作られた。物産とは生産物資、商取引物資、消費物資などが上げられるが、世界全域を対象として物産中心に取り上げている代表的なものにあたるとされる。(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年 129頁)
[出版年]成立年代不詳、城戸房就写とある。「今川状」の成立は永享元年(1429年)
[版元]作者は今川貞世(了俊 1315-1420年)である
[形態]袋綴、寸法は縦横250ミリ×172ミリ、28丁、1面2行・1行6字、[内容]室町時代前期の武将である今川貞世(了俊)が息子の仲秋に宛てた教訓的な家訓である。家訓題目は「今川了俊子息仲秋制詞条々」であり「一、文道を知らずして、武道終に勝利致さざる事」以下二十三ケ条文と文武両道のあるべき姿を説く内容文であり、壁書されたものである。家訓の内容は文武両道、無益な殺生を戒めること、先祖の崇拝、臣下への配慮、天道を恐れる事、分限を知ること、礼儀を重んじる事、武具衣装に見苦しくない事、因果道理をわきまえる事など普遍性をもつ内容を説いているが為に、江戸時代全般においても重用された。[備考]石川松太郎の分類によれば歴史類・古状型にあたる。歴史類とは「過去における何らかの事件・人物あるいは流れに題材を索めて内容を構成」(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年 79頁)したものとされるが、江戸時代に流布した数や種類も多かった。石川によれば歴史類はさらに古状型、伝記型、史詩型(漢詩形態)、史詩型(国歌形態)の四種類に分類される。本学の「今川」とは「今川状」であり、古状型のなかの古状単編形態にあたる。この種の古状揃の類の往来物は多く流布しており、幕末・維新期までに200種類以上も発刊されたようである。
[出版年]不詳
[版元]不詳
[形態]袋綴、寸法は縦横175ミリ×120ミリ、17丁と9丁と16丁を合冊して42丁、合冊の内容は消息往来、続消息往来、消息往来講釈である。1面5行・1行11字、[内容]冒頭に「凡、消息者通音信、近所遠国不限何事、人間万用達之基也、先書状手紙取扱文字一筆啓上仕」よりはじめられている。つまり消息とは音信を通じて近所や遠国に限らず人間の用事を達する基である。その手紙文で取り扱う文字について字典のように語彙が集約され、役立てられるように編纂されている。手習い手本としても講釈付きで意味も理解できる便利な書である。取り上げられているのは書、春、夏、秋、冬、尊称、礼儀など実社会に必要とされるものである。例えば気候文の「春」の表現には余寒、春寒、春暖、暖気、長閑、兼暮、夏は向暑、土用入、甚暑、厳暑、酷暑など四季の移り変わりを的確に表現する豊かで繊細な語彙が集められている。消息往来講釈には419 もの語彙の解説が簡潔明瞭になされている。例えば家や家族に関する語彙として「繁盛、幾久、家督、隠居、遺跡、婚姻、妊娠、着帯、降誕」などがあげられ、「婚姻」の語彙の講釈は「よめの親るいを婚と言、むこの親るいを姻といふ」などとしている。[備考]石川松太郎の分類によれば消息類・消息往来型・第五類「大全 消息往来」と称するものとされる系譜とされる。この「大全 消息往来」は安政年間に江戸の山口屋藤兵衛(錦耕堂)により上梓されたものが代表的である。(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年刊)
[出版年]不詳
[版元]地本問屋森屋治兵衛(江戸)版、作者不詳
[形態]袋綴、寸法は縦横185ミリ×130ミリ、15丁、1面5行・1行7字、頭書に諸礼之図抄あり。[内容]冒頭に「富士山景色」の絵と「時志らぬ山ハふじのねいつとてか、かのこまだらに雪のふるらん」の和歌が挿入されている。頭書には諸礼に関する23事例が挿絵付きで説明され、漢字と偏と“つくり”、片仮名いろは、仮名遣い、各月ごとの異名、仁義礼智信の解説もなされている。本文は古往来の「十二月往来」を模範型として一月から十二月までの各月ごとに行事や風雅な季節の移り変わり趣深く表現された雅やかな文章が二例ずつ文例として編集されているものである。[備考]石川松太郎の分類では消息類・消息文例型に該当する。この「風月往来」は幕末から明治に至るまで多くの版を重ね普及したとされる。消息類とは手紙往復文の雛型といえるが、消息文例型とは手紙の模範文・模型文を集めて往来物として編纂したものである。風月往来は内容編集形式においても十二月往来を原型ないしはモデルとして一月から十二月までの往復の手紙文で構成されている。モデルとした十二月往来とは『群書解題』(第二巻、消息部・文筆部・伝部1961年11月刊、1976年5月再版)によれば平安時代末期の教科書であるとされ、作者菅原道真、中山忠親、後京極良経など諸説あるが不明とされる。成立年代も12世紀頃と推定され、朝廷や寺社の行事についての手紙文例がその内容である。
[出版年]弘化3年(1846年)刊
[版元]天満屋安兵衛(大坂)板・廣屋福三郎(大坂)板、本町五丁目□□版[形態]袋綴、寸法は縦横220ミリ×154ミリ、95丁、1面5行・1行9字、仮名付[内容]商家用文章とは商家で日常的に必要とする生活上、商売上の手紙文の文例が往復の一対の形で編集されたものである。文例は41例あり、対となっていないものも含まれる。例えば年始祝儀状と同返事、婚礼祝儀状と同返事、節句祝いや病気見舞い、安産祈願や通過儀礼の祝いの往復の文例などである。それと共に商売上に必要とされる買先問屋引付状、商人引付状、注文催促状、仕切書下状、為替手形遣す状、代銀催促状などの書状文例も含まれている。全体として短文のものが集められて編集されている。例えば為替手形遣す状では「然者御仕切銀貮拾八貫目金三百六拾五兩当地某殿店江為替取組則手形一通指登申候日銀之通御請取可被下候右之段申上度如此ニ御座候以上」、同返事としては「同返事、以手紙啓上仕候、甚寒之節御座候得共弥御安全御入珍重之御儀奉存候、然者為替手形御登被下則一、金五百八拾五兩、一、銀三拾八貫六百目、当地両替何屋誰殿よ里無相違随ニ請取被申候、猶不相愛追々御注文被仰下候様奉頼上候、猶亦早春寛々可得貴意候已上」などである。[備考]石川松太郎の分類によれば消息類・用文章型に属する。消息類は往来物の原型ともいうべき手紙文の往復文例を基本とするが、その中でも用文章型は17世紀末頃から18世紀初頭にかけて成立して以後、200年間もの長期にわたり最も需要があり、重宝されて、目覚ましく普及した往来物であるとされる。用文章型にも武家用文章型と庶民用文章型とがあるが、本書は庶民用文章型にあたる。
[出版年]明治7年(1874年)8月刊
[版元]文部省編、内田嘉一書
[形態]袋綴、寸法は縦横218ミリ×150ミリ、43丁、1面5行・1行9字、仮名まじり文、[内容]日用的な往復書簡は今まで男女を分けた書の様式であったのを改めて、男女同じように書き下しの体裁と定めて作られたものが編集されている。例えば「口上書類昨日小学校へ入門相すみ候」「明朝女学校へ御同道申度候」「うひまなひ四五日の内拝借いたし度候」などの学校関係の短文や「御約束の南部縮緬見本として御廻し申候」などの日用文、「私儀、此程者女学校教師に御撰相成有難き事ニ御座候甚不安心にハ候へとも御取設のはしめにて御人も乏しきよし承り及し御行届き候丈ハと心懸候、猶何事も御目ニかか里候上御咄申上へく候」などやや長文のものも多く集められている。学校が始められ、女子にも必要とされる用文章の需要の増大に対応したものであろう。[備考]石川松太郎の分類では消息類・用文章型に該当する。用文章とは日常に必要な挨拶文や祝儀文、実業に不可欠に実用文の事であり、それらの雛型を纏めたものである。
[出版年]明治9年(1876年)5月刊
[版元]佐野元恭著、宝文堂(大阪)版
[形態]袋綴、寸法は縦横222ミリ×154ミリ、46丁、1面5行・1行10字、仮名付き[内容]明治期以後の日用の手紙文例が集められ編纂されている。例えば学校設立を促す文例や入校依頼の文章などがある。[備考]石川松太郎の分類では消息類・用文章型に属する。用文章型には近世以前は武家用文章型と庶民用文章型があるとされる。作者の佐野元恭は旧和歌山士族であり明治初年に伊勢国の久居義塾の教授者であったことから、近代の学校教育の成立により、漢語を使用した用文章への需要も高まったのか、漢語用文章文例が集められ編纂されたのであろう。
[出版年]不詳、明治期の文明開化期とりわけ「学制」公布(1872年)以後85年頃までの出版と思われる[版元]岡山通良編、村田海石書
[形態]袋綴、寸法は220ミリ×154ミリ、101丁、1面5行・1行10字、仮名付[内容]日用の挨拶文などを漢語で表現する文例が集められ編纂されている。例えば「寒気尋問之文」「学校設立を催す文」など往復文例併せて46文例がある。明治になると学校教育が始められ、それに関する漢語まじりの用文章が必要とされたのであろう。「学校設立を催す文」では「寸楮拝呈春寒猶料梢愈々清適珍重々々、さて急用ニ付客冬より横浜まで相越昨夜帰郷揚帆之刻者繁忙にて無沙汰仕候段平ニ御海容可被降候、抑々当今之景況を見るに府々縣々見るとして開けざるなく固なとの変化せざるなし、学校を設くるそ文明之基礎碌々として因襲になづミ徒に白駒を過さば蛮夷之謗をまぬかれず実に口惜き次第ニあらずや先生之人望を以て区内を挙動せバ成業之期指を屈して約すべし、僕愚昧といへども御指揮次第戮力可仕候間速ニ御発心奉企望之謹言」とある。対となった復書が続いて以下の文例内容で述べられて入る。「右之復書玉書拝誦昨夜横浜よ里御帰館之由御老母殊之外御まちかねの御様子嘸々御喜悦御安慮之程奉推察候、定而珍談奇説茂可有之寛々拝聴可仕候、如命開化日新之秋義塾興帳之儀者暫時も穉諾すべからず区内有志之徒両三名相かたらひ即今衆議最中ニ御座候、御多忙には可有之候へど茂御尽力被下候ハバ一統之統括只管御臨席所仰候勿々奉復」である。[備考]石川松太郎の分類によれば消息類・用文章型に該当する。文章の響きからして文明開化の早い時期に成立したとみられよう。
[出版年]享保7年(1722年)3月刊
[版元]大黒屋喜左衛門(大坂)・敦賀屋九兵衛(江戸)・鳥飼市兵衛版、実語教と童子教の合冊本[形態]袋綴、寸法は縦横265ミリ×185ミリ、119丁、実語教部分1面8行・1行10字、童子教部分1面8行・1行10字、頭書・仮名付[内容]本文は実語教と童子教から構成されている。頭書には今川状、義経状、初登山手習教訓書、熊谷送状、七伊呂波、商売往来、庭訓往来が全文のせられている。[備考]石川松太郎の分類によれば訓育類・実語教型である。しかし石川謙・石川松太郎父子の往来物分類の基になっているのは戦前の岡村金太郎(理学博士、生物分類学)による往来物の分類である。岡村によれば実語教・童子教の合冊本は合書類として編集形態の特殊性から独立した分類をしている。しかし内容上では教訓的な教科書であることより石川説の訓育類に分類した。
[出版年]文化4年(1807年)刊
[版元]須原屋伊八(江戸)版、敦賀屋九兵衛(江戸)版、播磨屋利助(大坂)版、秋田屋太右衛門(大坂)版、塩屋平助(大坂)版、実語教と童子教の合冊本[形態]袋綴、寸法は255ミリ×185ミリ、96丁、実語教・童子教の双方とも1面10字、1行10字、[内容]本文は商売往来、庭訓往来、実語教、童子教で構成している。頭書には天神教、伊呂波、今川状、義経状、初登山手習教訓書、熊谷送状、経盛返状、御成敗式目、風月往来、弁慶状など古状を多く取り揃えて編集されているところに特色がある。[備考]石川松太郎の分類によれば訓育類・実語教型である。実語教型とは実語教と童子教を合書して教科書として編纂したものである。実語教とは成立は作者は弘法大師空海とされるが確証はない。また成立時期は平安末期と推定されている。鎌倉期には普及し、江戸時代には往来物に取り上げられ庶民教育教科書として大いに活用され普及したとされる。(『群書解題』第八巻、1961年初版)
[出版年]文政8年(1825年)正月刊
[版元]木村明啓編、暁鐘成画、和田正兵衛書、文好堂(江戸)版元、鉛屋安兵衛・松屋喜兵衛・永楽屋平四郎(名古屋)・鶴屋善右衛門・山城屋佐兵衛(京都)出版[形態]袋綴、寸法は縦横218ミリ×153ミリ、52丁、実語教・童子教双方とも1面7行・1行10字、頭書付き、[内容]本文は実語教と童子教を基本としている。またそれ以外にも今川制詞状、商売往来なども合書して多彩性をもった教科書としている。[備考]石川松太郎の分類では訓育類・実語教型に属する。童子教は作者は僧侶安念ともされるが、それも確証はない。成立は鎌倉末期と推定される(前掲『群書解題』第八巻1961年)。室町時代初期から明治期にいたるまで一貫して子どもの教科書として学習されてきた。
[出版年]天保13年(1842年)刊
[版元]須原屋茂兵衛(江戸)・秋田屋太右衛門(大坂)版元
[形態]袋綴、寸法は縦横174ミリ×124ミリ、153丁、実語教・童子教の双方とも1面6行・1行10字、頭書付き[内容]百科辞書的な便利な書として編纂されている。厚手の合綴本である。本文は実語教と童子教を基本として、その他に庭訓往来、商売往来、今川状など著名で学習にふさわしい内容の古状を多彩に盛り込んでいる。頭書も多彩であり、寺子教訓書、諸職往来、十二月異名など頻繁に使用されていた需要の高いテキスト内容を盛り込んでいる。[備考]石川松太郎の分類では訓育類・実語教型に属する。実語教・童子教は仏教倫理と儒教倫理を庶民にわかりやすく簡潔な文章で表現したものである。
[出版年]天保14年(1843年)
[版元]生花堂版元、内山松陰書
[形態]袋綴、寸法は縦横230ミリ×163ミリ、32丁、1面5行・1行8字、頭書付き[内容]全体としての特色は江戸の町人層を対象として日常生活の心得や生活に必要な知識を伝えようとしたものである。前半の内容は庶民の願いである安寧五穀豊饒は天道正直の道理にかなっているからであり、不埒不法が増長すれば地獄餓鬼畜生修羅の呵責をうけるとして因果関係が説明される。また後半には江戸名所や実生活や実業の物資の名前などが列挙され不可欠な知識とされる。[備考]石川松太郎の分類によれば訓育類・一般教訓型・様々な教訓について述べているタイプのものである。
[出版年]弘化年刊行
[版元]藤岡屋慶次郎(江戸)版元
[形態]袋綴、寸法は縦横177ミリ×115ミリ、11丁、1面5行・1行9字、頭書付き[内容]子どもは手習い・算術・芸能の稽古事を幼少の頃より習い慣れることが大切とされる。その場合も家業第一とすべきであり、家業を疎略にしないように厳しく戒められる。もしそうしない場合の悪しき事例が縷々のべられ、庶民にとって「余力学問」の大切さが説かれている。[備考]石川松太郎の分類では訓育類・知育型に該当する。
[出版年]不詳
[版元]作者不詳、敦賀屋九兵衛(江戸)・松村(大坂)書林上梓、諸国の13書林出版、長玄海堂筆[形態]袋綴、寸法は縦横220ミリ×152ミリ、48丁、1面5行・1行6字、[内容]女子の日用の文及び返事からなる17対の往復文例と一般的な日用文6文例から構成されている。例えば「初春祝儀文・同返事」などである。[備考]女子用往来である。とりわけ西国地域に流布していたようである。女子用往来の消息型・用文章系統に属する。
[出版年]明治6年(1873年)4月官許、明治6年8月発刊
[版元]山本與助著、荻田筱夫画、宝文堂大野木市兵衛版元、諸国109書肆出版[形態]袋綴、寸法は縦横177ミリ×120ミリ、49丁、1面5行・1行7字、頭書絵入付き[内容]本文は世界各国の女性の風俗、結婚の在り方をとらえ、併せて女性に必要な知識、学校や服装などについて述べられる。世界の婦女とあるようにアジア諸国、アフリカ諸国、西欧諸国、南北アメリカ諸国、そして最後に日本の女性の社会的な現状についてのべられる。文明開化の思潮に相応しい新しい知識をとりわけ女性に奨励している本である。[備考]女子用往来である。石川松太郎の分類によれば女子用往来の社会型・社会系統に属する。
[出版年]不詳
[版元]著者不詳
[形態]袋綴、寸法は縦横247ミリ×180ミリ、50丁、頭書付き、百人一首は作者絵入り[内容]まず絵入りで紡織の技の説明があり、百人一首の女性歌人の説明がなされる。続いて絵入りの百人一首全部と秋の七草など花の絵入り文、女書の手本がある。頭書には孝行説話、諸寺略記、日用文章の雛型や文の結び方など、女性の嗜みとしての知識と教養、女文字が集められている。女性にとって重宝な書として編纂されている。[備考]女子用往来に属する。女子用往来物の出版点数は吉海直人が確認できている数は979点であるとされ(吉海直人「女子用往来物としての百人一首」江森一郎監修『江戸時代女性生活研究』1994年6月)、石川松太郎によれば江戸時代を通じて1000〜1500種類が出版されたとされている。いずれにせよ膨大な流布をしたのである。その最も爆発的な増加を示す時期は宝暦・明和期とされ女子用往来としての百人一首の確立期とみる(前掲の吉海直人論文)。本学のものは作者絵入り百人一首のタイプのものであり、女性の識字の進展と女子用往来としての百人一首の庶民化とは相応していた。
[出版年]不詳
[版元]著者不詳、昌栄堂和泉屋吉兵衛(江戸)版元
[形態]袋綴、寸法は縦横235ミリ×180ミリ、107丁、1面5行・1行10字、[内容]本文の始まりは定型化されている正月の祝意と富貴満福のめでたさを言祝ぐ内容で始められる。続いて正月から十二月まで各月ごとに二通の対の書状文例が示される。内容は多岐にわたり難解でもある。海産物や魚鳥の名前、柱立や建築の用語、訴訟や法律、芸事、医療など多彩な内容である。[備考]古往来に属する。本書「庭訓」の語義は孔子の故事に基づき、転じて童蒙にものを教えることを意味するとある。本書の作者は玄恵とされるが確証はない。また成立時期も諸説あり確定されてはいないが、南北朝時代から室町期にかけての頃とみてよいだろう。此の頃に武家や上層庶民の子弟が寺院に入門して手習いや学問を習得することが一般化し、この時期、本往来が成立したと考えられている(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年7月)。
[出版年]嘉永7年(1854年)刊
[版元]蔀関牛著、吉野屋仁兵衛(京都)版・山城屋佐兵衛(京都)版・升屋勘兵衛(京都)版、河内屋喜兵衛(大坂)版、河内屋太助(大坂)版、永楽屋東四郎(名古屋)版、天保5年(1834年)12月新版、弘化3年(1846年)3月再刻、嘉永7年5月三刻[形態]袋綴、寸法は250ミリ×178ミリ、87丁、1面8行・1行13字、頭書仮名付[内容]二十五通の手紙文からなる。「十二月往来」のように毎月の往返一対の手紙文と「八月十三日状」からなる。手紙文で取り上げられている題材は多岐にわたり多い順にみると衣食住関係用語、職分職業関係用語、仏教関係用語であり、最も少ない部門は文学関係用語である(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年)とされ、武家生活を基礎としたものが基調にある。[備考]古往来に属する。具注鈔とあるように本文の解説が半分を占めている。
[出版年]不詳
[版元]
[形態]袋綴、寸法は縦横270ミリ×190ミリ、37丁、絵入り
[内容]二十四孝とは中国古代で孝行者とされる二十四人が選ばれて説話が収録された教訓書のことであり、本書は絵入りで説明されている。本文最後に「孝行」論もある。ここで取り上げられている孝子とは虞の舜、漢の文帝など24人である。[備考]石川松太郎の分類では訓育類・一般教訓型・特定の徳目について述べたものとして分類される。
[出版年]不明
[版元]やまと孝経文(一)(二)(三)(四)(五)の合冊本
[形態]袋綴、寸法は266ミリ×177ミリ、120丁
[内容]孝行についての説話本である。五巻の合綴本である。[備考]石川松太郎の分類によれば訓育類・一般教訓型・特定の徳目についてのべたものに分類される。
[出版年]天保8年(1837年)刊
[版元]小野治右衛門・幅翔斎弘度版
[形態]袋綴、寸法は縦横225ミリ×155ミリ、74丁
[内容]吉備倉敷の小野弘度が生業のために各地を歩くうち、人の教えとなるべき仮名文や、母親が子どもに語り聞かせるために、他国で聞き集めた話を集めて本としたものとされる。民間の孝行話、「手嶋先生のいろは歌」など仮名まじりで、わかりやすく絵入りで説明されている。[備考]その他の往来物あるいは内容的にみれば訓育類に該当するとみてよい。
[出版年]不明
[版元]伊丹屋善兵衛(大坂)版元
[形態]袋綴、寸法は縦横213ミリ×150ミリ、10丁、1面11行
[内容]和算と算盤への数の置き方の図が示されている。そして「見一并割りこえ」として見一計算の説明と算盤図がある。[備考]岡村金太郎、石川謙、石川松太郎は理学類に分類している。理学類の代表的なものが「塵劫記」であるといえる。石川松太郎は理学類・算数型としている。小本である。「塵劫記」の著者は吉田光由であり、成立時期は寛永年間(1624〜1647年)であるので江戸初期である。八算とは除数が一桁の割り算のことであり、見一とは除数が二桁の割り算のことである。寛永期の成立期には伝統的な中国の数学書の体系により教養書として著されたものが、元禄ころより原型が解体されて必要部分のみが取り出され再編されていった。その流布した形の出版物のひとつが本書にあたる(川本亨二「初等算数教科書としての『塵劫記』」『教育学研究』第35巻第2号 1968年6月刊)。