り目出度かりけること共なり 敬により当寺の祈請にこたへた またにしけしこれ併此寺の崇 さかへ徳政国にみちて憲章ち 哥仏法繁昌して王法いよ /\ にこけふかくして舜日の化を て尭年の春をよろこひ諫鼓 しひかりをゆつり刑鞭かまくち たれ鎮府国をまもりて羽林のほ 事をたすけて象岳の月明を さしくをさまれり賢良まつり 天下静謐にして八荒のちりひ にして四遠の雲うこく事なく つまり国ゆたかなりき海内無為 かやうにして将門誅罰の後は世し
第四段

にちかひて北面にむかひ給へり へりき其後王城鎮護のため せなかれて右のもとゆいきれおち給 て本壇に立たまふ像をおかむにあ にさしころしはんへりきさてかへり はねをきりをとすしかれともつゐ さ ゝむとするに将軍剣をふりてかた 合戦のにはにとひゆきて将門を をなすほとに大なる蜂となりて にはかにかくれ給ぬ諸人あやしみ 七大寺の諸僧祈請せし時此霊像 ありて法花堂の執金剛神の前にて 神に祈祷すへきよし
宣下
するに人ちからをよひかたくて仏 兵を引率して将門を征罰せむと 将軍にて貞盛秀郷等数万騎の官 天暦のころ右兵衛督藤原忠文を大 国位をかたふけむとす
村上御時
国分の門より出其後謀叛をおこして の御宇天慶年中に部類を率して す山上君といふ成長ののち
朱雀院
平将門幼少の時銀堂のうしろの谷に住
第三段

申これ也 親王の
宣をくたして富墓宮と
あらたまる事なし
上皇即内
院と号す当代にいたるまてその名 いたしきこれによりて其所を孝養 日 々にゆきて恩顧を拝し孝養を ろにして冬夏の資縁おろかならす させ給ふ良弁晨昏の水舞ねんこ 御哥即官舎をたまひてやすめすゑ 十善の御手を拱して礼するか如にし 貴かるへしとて
聖武禅定法王
れり其身いやしきと云とも宿善尤 汝宿生の契によりて良弁の生母とな めして母子ともにめしてのたまはく るよしを奏し申
上皇あはれみおほし
僧正内裏にまいりて老母かたつねきたれ
第二段

合てこれを礼す 悲喜のなみたをさへかたしとて掌を し幸に今見たてまつる事を得 ても報しかたく多生にもむくひかた くるしめたてまつりけん事劫を経 三十余年のあひた心をくたき身を 語て云所生の恩もとよりふかきうへに に行向て涙をなかし悲を含て この事をき ゝていそき母のところ このよしを具に良弁にかたる僧正 にいそくかみまいらすへきといふ僧 たのみなき露のいのちのきへぬさき にこそとおもひて此寺へまいりて候也 ものかたりをき ゝてさてはその御事 もとめまいらせ候つる也思ひかけす人の かれいて ゝ三十余年のあひたたつね たひ見まいらせんとて本国をう はしまさはわか寿の候ときいまひと らする事もあらしいきて世中にお 鷲もむなしく寿をうしなひまい へきしるしのみ候しかはさりともよも 懐孕のはしめより寿もなかくよかる 母也鷲にとられてはおはしまし ゝかとも 氏の女人也僧正御房をうみたてまつる ひ候へとていふ様吾はこれ相模国漆部 上へき事侍りねかはくは伝へ申てた をかたらひて云く別当僧正御房へ申 て衆僧の中に公人めかしき一人の僧 たし門の東のわきにたちやすらひ たりその砌厳重にして子細をのへか のともから巍 々として見聞の道俗済 々 南大門に寺官集会をなし供奉 たつぬるにその日別当の拝堂とて 良弁の母いそき東大寺にいたりて
第一段