日本の唱歌と太平洋の賛美歌(安田 寛 著) -奈良教育大学 出版会-
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67次々に学校を建てて、そこで讃美歌を教えていきました。 ところでミッションの教育に対してハワイの人たち自らが自分たちの子供を教育しようとする動きは、例えば一八三五年になってマウイ島の長官であったホアピリが「四歳以上の児童は学校に行くように、教師は教師以外の仕事を免除する」という命令を出しました。でもハワイの人たちによる公立学校はうまく機能しなくて、とてもミッションスクールの競争相手ではありませんでした。 この例からも想像出来るように、ハワイでは最後まで教育はミッションの強い影響の下にあって、ハワイの子供たちを教育する権利はミッションに握られたままでした。こういう状況ですと、学校で音楽を教えるという時に、日本の唱歌のような独自の教材が生まれるという条件が存在していないことが分かります。 このように自分たちが主導権を持って子供たちに音楽を教える教材を作り上げてゆけるかどうかということが、唱歌のような歌が出来てくるかどうかにとって非常に重要だということが分かります。 韓国と中国の場合について簡単に触れておきますと、韓国では、近代教育を開始したのはミッションでした。韓国人が歌った最初の西洋の歌は、ミッションスクールの讃美歌です。韓国人が独自の近代学校制度を自前で作ろうとした矢先に教育権は日本に握られてしまいました。一九〇六年、明治三十九年のことです。その後、学校では日本の唱歌が教えられます。ですから韓国人自ら日本の唱歌のような独自な

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