日本の唱歌と太平洋の賛美歌(安田 寛 著) -奈良教育大学 出版会-
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72に東京女子師範学校附属幼稚園が宮内省に依頼して保育唱歌を作ります。 ところで鎖国の動機の一つがキリスト教を日本に入れないということがあったのはご存知の通りです。それから日本ではキリスト教を信じることは重い罪とされ、日本人にはキリスト教を忌み嫌う体質が根づきます。明治政府もキリスト教に対してかなり強い警戒心があります。ですから日本ではハワイのように学校で讃美歌をそのまま教えることは問題にならなかったと思います。ハワイでは独自の保育唱歌か讃美歌か、といった対立の図式は起こりません。日本で保育唱歌の対抗馬になったのは讃美歌との折衷案で出来た唱歌です。つまり旋律は讃美歌のものを使って、歌詞を独自なものにした唱歌です。後に文部省唱歌と呼ばれるようになる唱歌です。 これらは公立学校での動きですが、忘れてはいけないことは、公立学校の動きとは関係なしに、当時日本ではすでにミッションスクールが作られて、そこでは讃美歌が教えられていたことです。公立学校もこの影響は無視出来なかったはずです。ですから当時日本には雅楽による保育唱歌、讃美歌と折衷した文部省の唱歌、キリスト教の讃美歌の三つどもえという状況が出現していました。 日本がやがて国力をつけてゆくと、ミッションスクールの自立性に制限がかけられ、唱歌と言えば文部省の唱歌と誰もが思うようになっていきます。保育唱歌は社会から完全に姿を消し、讃美歌は教会の歌として位置づけられます。 ただですね、旋律だけを聴いていると、学校でも教会でも同じような歌が歌わ

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