日本の唱歌と太平洋の賛美歌(安田 寛 著) -奈良教育大学 出版会-
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74植民地支配しましたので、教育は日本人がしました。学校では日本の唱歌を教えたわけです。韓国のチャンガを歌わせないようにしました。韓国のチャンガをアンダーグラウンド、地下の音楽にしてしまった歴史があります。 もう一つ、僕が注目している地域として面白いのがミクロネシアです。ミクロネシアもやはり讃美歌がまず入ってきて、在来の歌舞が禁止されて、その代わり讃美歌が普及していった、その状況の時に今度は日本が委任統治によって、そこを支配することになったので、今度は日本人が唱歌を島々に持ち込んで、島の子どもたちに歌わせていったという歴史の積み重ねがあります。土着の歌を排除した讃美歌が定着して、その讃美歌を歌っていた人たちに日本の唱歌を歌わせる。 先ほどの話をもう一度くり返しますが、日本でも様々な種類の唱歌が試作されましたが、順調に成長出来たのは文部省が試作した唱歌だけでした。その一番の理由は、それが讃美歌に対抗出来るだけの魅力を持っていたからではないでしょうか。そうだとすると、ここで唱歌の重要な性質が一つ明らかになります。唱歌とは、讃美歌に対抗する歌であった、ということです。唱歌は讃美歌の代わりに人々の間に普及することの出来る歌であった。だからこそ、日本で独自に開発された唱歌は植民地の拡大とともに台湾、韓国、ミクロネシアへと進出することが出来たのではないでしょうか。 こういうふうに考えますと、十八世紀後半から二十世紀にかけて讃美歌と唱歌とがアジア太平洋を舞台として関わった歴史というのは、歌の文化、広く言えば音楽

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