身体教育という考え方 -スポーツ文化からのアプローチ-(井上 邦子 著) -奈良教育大学 出版会-
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- 7 - た意味で、相撲は身体を介した体験を積むことにより、人への共感となりうるのです。これは、最も深い人への共感といえるでしょう。人への「身体を介した」共感の機会、これが「人にとってのスポーツ」の大きな意味です。 さらにモンゴルの伝統スポーツが教えてくれる「人にとってのスポーツ」の意味は、実はもう一つあると筆者は考えています。次の章で詳しくお話ししましょう。 5.身体ごと受け入れるということ モンゴルの人々はこのナーダムを一年の内で最も楽しみにしています。相撲以外にも競馬や弓射の競技も開かれ、この時ばかりは国外に移住するモンゴル出身者でさえ、国に戻ってナーダムを楽しむほどです。 だれが大きな力を持ち、素早い身のこなしや巧みな技ができうる人物か――見学する村人の関心はここに集まります。遊牧の暮らしでは、大きな力を持ち、巧みに、俊敏に動ける人物が、共同体の運命を握ります。野生のオオカミから大事な家畜の羊を守ったり、馬の調教をするときに馬を制御したり、牛を引っ張って移動させたり、すべてにおいて大きな力と、それを巧みに使いこなせる技と知恵が必要になってきます。誰に仕事を頼めるのか・・・そうしたことを含めて、期待を込めてナーダムを見守っているのでしょう。共同体から排出するボフの身体の巧みさは自分たちの運命を握るのですから。 そのなかで圧倒的に強い力士は、当然故郷の英雄となります。その力強さは、共同体の生命力の強さなのでしょう。我々も大相撲において地元出身力士を応援することはよくあることですが、しかしそれとは比較できないほど、モンゴルでの故郷出身の力士は地元の人々の大きな誇りとなっていきます。 ただ、地元の人々にとって相撲は「誰が強いか」だけを見る装置ではないと筆者は思っています。いくら屈強なモンゴルの遊牧民でも、非力な人はいるはずです。時には人の助けが必要な人もいるでしょう。誰が助けを必要としている人か――これを、相撲を通じて、人々は知ることになります。すなわち、誰が共同体の運命をけん引して担ってくれる人か、そして誰に手助けをすればよいのかを、相撲は暗黙の了解として共同体に提示してくれるのです。すなわち相撲を見ている共同体が、ボフのありのままの身体ごと受け入れるのです。い

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