人間ジオ宝(河本 大地 著) -奈良教育大学 出版会-
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くさんありました。岩盤にはしごをかけて上らなければならない箇所もありました。生活の糧である牛を売りにいくのも大変でした。関西電力による電気の供給は1962年から。それまでは、住民はランプとカンテラを使っていました。自分で小規模水力発電の設備をつくって10年ほど使用し続けた人もいました。 しかし、町に買い物に出かけた女性たちが帰りに雪崩に遭うという事故があり、1969年には住民の依頼で美方町が越冬住宅を、小代の中心部に近い野間のま谷たにに建設しました。そして、熱田の住民みんなが一時的に引っ越しました。その時は、春になったらみんなで熱田に帰る予定でしたが、子どもたちは越冬住宅の近くにある小学校でできた新しい友達と別れたくなくなりました。そこで結局、年間を通じて越冬住宅でみなさん暮らしながら、農林業や祭、墓参り等のために熱田に通い続ける生活になりました。しかし、もともとの熱田の土地にこだわる若い人は、だんだんと減っていきました。高齢化が進み、熱田が大好きな方々も通うのが難しくなりました。熱田に残された家々は、積雪等により相次いで崩壊してしまいました。田畑を耕すことも少なくなり、跡地に植えた杉の木々は大きくなり、すっかり熱田の風景は変わりました。 徳左衛門さんは、そんな熱田で2009年まで但馬牛を飼い続けてきました。ここでは、厳しい気候風土ゆえに身体の引き締まった牛が育ち、以前は熱田の牛と言うと非常に高く売れたそうです。夏場は集落の中で放し飼い。熱田の草を食みながら、牛はのびのびと育ちました。冬場は、越冬住宅ができてからはその近くで飼っていました。春と秋には、10km以上の道のりを徳左衛門さんと牛たちが大移動する光景が見られました。 徳左衛門さんは、大阪等の自然学校や英語キャンプの受け入れにも積極的でした。小学校1年生の頃に熱田の徳左衛門さん宅で民泊を経験した伊丹の方が、大人になってからあれはどこだったんだろうと思って探し出し、今も毎月のように熱田をはじめとする小代に通っています。2015年には、自然学校に参加し

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