知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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仮に自然主義が、思い込みに知識の座を譲る相対主義に歯止めをかけ、経験を超える真理の存在を確保しようとしているのだとすれば、この動機はまったく正当なものです。フッサールもそれに同意するはずです。しかし残念ながら、目的を達成するための進路の選択において、自然主義は大きな過ちを犯している。これがフッサールの診断です。たしかに真理の存在は確保されなければなりません。しかしそれが確保されるのは、物の世界とは別のところにおいてであるはずです。では、どこに? この問いに対してフッサールは、経験においてであると答えます。 「物理学者が観察し、実験をなし、絶えず見つめ、手に取り、天秤に 載せ、溶鉱炉の中に入れる、その事物、ほかのいかなる事物でもない この事物こそが、重さ、温度、電気抵抗等々といった物理学的諸述語 の主語になるのである。」(『イデーンI‐I』227頁) 自然主義者は言うかもしれません。「われわれは物理空間の中に存在する事物の真の姿を、経験に汚染されない生なまの状態で記述するのだ」と。しかしこのような言明はパラドクスを含んでいます。この言葉を額面通り受け入れるならば、科学の文脈で語られる物とは科学的記述の「主語」、つまり科学的探究という経験(!)の対象なのです。対象は、それについて予測を立てたり、推論したり、観察したり、数値化したりする経験のなかで、科学的記述の主語として構成されます。感覚的記述(「赤い」「つるつるしている」「甘酸っぱい」など)の主語としてのリンゴが、それを見たり、触れたり、味わったりする主観にとってのみ存在できるのと、事情はまったく同じなのです。 もちろん科学が扱う「物」には、直に観察・操作できる日常サイズのものから、数億光年離れた天体や極小の細胞など肉眼では見えないものまで含まれます。これらの対象を観察するためには、望遠鏡や顕微鏡などの補助手段を使用せざるを得ません。しかしこの事実は、物としての天体や細胞が主観にとって経験不可能であるということや、ましてやそれらが心の外に存在するということを(もちろん心の中に存在するということも)示してなどいません。私たちは顕微鏡を通して細胞そのもの、、、、を見るのです。

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