知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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一体どの科学者が、自分に観察されているのは対眼レンズ上の像であって細胞そのものではない、などと考えるでしょう。 科学が扱う物と五感で感じられる物は、経験の対象であるという点で同質であり、さらに実質的に同一でもあります。このことが先の引用で述べられています。ロックやその影響下にある人々は、体積、密度、質料など数値化できる諸性質(第一性質)の担い手を正式に「物質」と呼び、色や手触り、香りといった数値には表せない感覚的な諸性質(第二性質)の複合体から区別してきました。しかし、これは不合理な議論です。仮にこの主張が正しいとすれば、人は「質料312gのリンゴ」と「甘いリンゴ」という二種類の異なるリンゴに関わっていることになります。こんな馬鹿げた話はありません。私たちは一つの同じリンゴを計量し、そして味わうのです。この単純な事実に誰が異を唱えるでしょう。 「質料◯gである」「体積△cm3である」「秒速□mで移動する」等々、これらに類する数値化可能な記述のみが、世界のあり方についての真実の語りであるかのように思われがちです。しかしその思いは、科学の世界観を日常の世界観から差別化したうえで不当にも後者を独断と決めつけるという、それこそ偏見に満ちた独断なのです。上述の記述がリンゴについての真の語りであるならば、同様に、「このリンゴは懐かしい味がする」という詠嘆も真実の語りなのです。物質としてのリンゴと観念としてのリンゴを二本立てにする必要などありません。あるときには理論的と称される述語を担い、またあるときには感覚的と称される述語を担う、一つの同じものが、すなわち主語としてのリンゴが存在するだけなのです。フッサールはそう考えました。 科学的述語の主語と感覚的述語の主語は、ともに経験の対象なのであり、両☝人に注目 ロック(1632‐1704) イギリスの哲学者・政治学者。哲学と医学を学び、貴族の家庭教師になり、政府の要職についた。経験論の立場にたち、また国王の専制に反対する運動に加わるが、失敗してオランダに亡命した。1688年の名誉革命の成功により帰国し、政府の要職につき、多くの著作を発表した。主著『人間知性論』『統治論』。(『現代の倫理』山川出版社、2013年、134頁)

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