知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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者のあいだに(存在論的な)身分の違いはまったくありません。注意しましょう。科学的探究とは極めて文化的な営為の一つなのであり、それを通じて獲得される知識もまた、生身の人間の五官を通して経験されたデータの集積として、私たち人類によって保持されていくものなのです。科学的知識もまた人間によって創造された文化財であるという事実を忘れてはなりません。科学の主役は人間なのです。 5. フッサールの真理論 5‐1 経験からの出発 対象(=主語)に対して述語を与え、そうしてできた文の内容を思うことが、その対象について知るための第一歩です。いま「第一歩」と言ったのは、いかにして思いが真なる知識になるのか、という肝心の問いがまだ残っているからです。しかし二元論が解体されることによって、紛れもなく、人間が真理に到達するための突破口は開かれました。物は人知の及ばない向こう側にあるのではありません。観念ならぬ物そのもの、、、、、が、多様な文において主観に与えられているのです。 では、思いの正しさ、より正確には、思われる文の真という性格はどこにおいて保証されるのでしょうか。言うまでもなく物の世界や心の世界においてではありません。フッサールによれば、知識の正しさが保証されるのは、思いが実現されるという経験においてなのです。たとえば「リチウムは赤色の炎色反応を示す」という思いは、試料をガスバーナで燃焼させ、炎色反応を観察するという経験において、初めて真理になる、、のです。裏を返せば、こうした経験から切り離して「リチウムは~」という文自体の真偽を問うても意味がないということです。 フッサールのこうした考え方は、一見、相対主義への歩み寄りを思わせます。なにしろ、個人がどのような経験をするかに応じて、同じ文が真であったり偽であったりする、というのですから。この指摘は半分当たっていますが、半分間違っています。まず、フッサール現象学の基本的なスタンスを改めてはっきりさせておきましょう。それは、「経験における対象(=主語)の与えられ方

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