知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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(=述語)に着目し、ただそれらのみを参照して、経験される限りでの真理を把握する」というものです。したがって、「現象学が示す世界像は、経験主観からの世界の眺めにすぎない」と批判する人がいるとすれば、それこそ自然主義にどっぷり浸かりきった人の主観的な不平にすぎません。そして、現象学者としては「その通り」と応じるほかないのです。 にもかかわらず、フッサール現象学は相対主義と混同されてはなりません。後者と違って前者は、「経験される限りでの真理」が同時に客観的と呼ぶに値する「普遍性」をもちうることを、説得力のある仕方で示そうとし、それに成功するのです。最後にこのことについて簡単に論じて、本書を閉じます。 5‐2 経験にとって真理とは 以前に真理の伝統的な定義を紹介しました。それによると、真理とは「物と知性の一致」です。フッサールの立場もこの伝統的な定義を踏襲しています。ただし彼が念頭に置くのは、単なる思いと実現された思いのあいだの一致です。つまり、文と文の一致なのです。まず「戸棚の中にリンゴがある」と真偽の程が定かでないまま思い、次に戸棚を開けて知覚による裏打ちを得た確信とともにそう思う。このとき時間を隔てた二つの思いの重なり合いの中で、改めて、当初思っていた「戸棚の中に~」ということが真であったということになる、、のです。この見解は、真理は物と知性(観念)の一致において動かし難く厳然と成り立っているとする伝統的な説明とは、根本的に異なります。経験の時間的な持続のなかで真理が生成してくる、というのがフッサールの主張なのです。 しかし、真理が経験の中にあるのだとすれば、私たちは真理に憧れを抱いたりしないはずです。誰も自分の手中にあるものを追い求めたりしません。ところが実際には、真理を希求して科学者は研究に没頭し、恋人の真意を測りかねて若者は身悶えする。経験において確かにその到来が期待されながら、しかしいまだ成就されていないという、この二面性こそ真理の本質なのです。つまり、真理を理解するためには、同時にその反面にあたる偽ないし誤謬を理解しなければなりません。確かにその通りで、先ほど真理が「生成してくる」と言いましたが、裏を返せばそれは、真だと信じられていたことが一転、偽であったと判明することがありうるということでもあります。

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