知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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話を少し戻しますが、現象学は対象の「与えられ方」に注目します。このスタンスを動機付けているのは、次の考えです。どの対象にも固有の与えられ方があり、それらが、それぞれの対象の本質を規定している。だとすれば、経験への与えられ方を正確に知ることは、対象を正しく知ることにとって重要な要素であるはずだ……。このように考えていったとき、樹木やリンゴ、粒子、天体など、存在の真理が経験にとって汲み尽くしがたいもの、端的に言って「経験を超えるもの」に固有の与えられ方が問題になります。おそらくそれは、述語としての与えられ方を通して経験される、もう一段高い意味での与えられ方なのです。どういうことでしょうか。 ここでフッサールが注目するのは、対象の「射映」という構造です。同じ対象が見る角度の違いに応じて、さまざまな異なる姿を現します。一枚の十円硬貨が、真上から見れば円形であり、、、、、、斜めから見れば楕円形であり、、、、、、、さらに真横から見れば長方形である、、、、、、、というふうに。もちろん、形の異なる三枚の十円玉が在るわけではありません。一枚の同じ十円玉が、異なる与えられ方、、、、、をもつのです。このような「同一性のもとでの多様性」が、射映という構造なのです。この射映は、さまざまな与えられ方を通して認められる、一段階高い次元での与えられ方です。あるいは「パターンのパターン」という言い方をしてもよいでしょう。「円形」というパターンや「長方形」というパターンなど複数のパターンが、「十円玉」という高次のパターンのもとに置かれるからです。 さて、少し前に「経験の中で真理が生成する」という趣旨のことを言いました。実は、いま見た射映構造が、真理の生成にとって決定的に重要なはたらきをしています。まず、この射映構造から、次の二つのことが見えてきます。①対象の与えられ方の全てを一挙に完全に規定することはできない(私たちは特定の位置から、対象の特定の側面を見ることしかできない)。それゆえ、②対象に関する私たちの知識は常に誤謬の可能性を含んでいる(たとえば、立派な屋敷だと思って回り込んでみると、ただの書き割りであったという例)。 ①こそ、対象が「経験を超えている」ということの本当の意味なのです。それは、経験を時間的に積み重ねていくことしかできないという人間の有限性に由来します。この有限性は、物を直接的に知覚することができないという二元論において言われたそれではありません。

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