知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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リンゴについての知識です。どれも日常生活において出会われる、ごくありふれた物たちです。そこに一体どんな謎が潜んでいるというのでしょうか。 けれども、そのように思えるのは、日常を科学より一段劣ったものとみなす偏見に囚われているからです。注意しましょう。認識論が問題にしているのは何らかの対象ではなく、むしろ対象についての知識の側なのです。ここでは、知識一般の成立条件が研究対象となります。そして「校庭の樹木の知識」は、たとえトリビアルであっても「ヒッグス粒子の知識」と同様に立派な知識なのです。対象の違いこそあれ、それらは同じ「知識」として根底のところでつながっているのです。だとすれば、考慮すべき要素を余計に含んだ複雑な知識を持ち出すのではなく、より単純な知識をモデルにしてそこから考察を始めるのが賢明なやり方であるはずです。こうして、冒頭で紹介したようなトリビアルな知識を取り上げることの意義が、ある程度は理解されるでしょう。 では、「科学的/日常的」や「推論から得られる/知覚から得られる」など知識の質の違いを度外視してもなお残る、知識一般の謎とは何でしょうか。ここで、中世の哲学者トマス・アクィナス(1225頃‐1274)による、伝統的な真理の定義を紹介します。それは次のようなものです。 伝統的定義:真理とは、物と知性の一致である。 あなたが「SはPである」と思っていて、かつ実際にSがPであるならば、そのときに限りあなたの思いは正しい(=真なる)知識なのです。このような知識観は、科学の営みの中に実験という手続きの形を取って組み込まれています。「リチウムの炎色反応は赤色である」と仮説ないし予測を立て、実際に赤色の炎色反応が観察されたならば、当初の仮説は正式に知識へと格上げされます。冒頭の例も確かにこれと類似した手続きを踏んでいたはずです。この定義こそ、正しい知識が満たしていなければならない最も基本的な特徴であると考えられます。 しかしこの定義は答えというより、むしろ、さらなる問いを誘発する起爆剤として多くの哲学者に受け取られたようです。認識論の探求が本格的に始まるのは、まさにこの問いをめぐってなのです。たとえば、19世紀末から20世紀

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