知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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初頭にかけて活躍したドイツの哲学者E. フッサールは、次のように述べています。 「ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との 一致を確かめうるのであろうか?認識はどのようにして自己を超えて、 その客観に確実に的中しうるのであろうか?」 (『現象学の理念』35頁) 伝統的定義では、知識の正しさは物と知性の一致によって確かめられるとされます。そして検証実験としての観察、一般的に言えば、真偽を確かめるために「見る」という知覚経験によって、この一致は確かめられます。普通はそう考えられます。しかし、本当にそう考えてよいのでしょうか。他ならぬこの点をフッサールは疑っています。人間(=主観)は知覚において、物(=客観)と知性(=認識)の一致そのものを見るわけではないでしょう(これについては後で詳しく述べます)。だとすれば、何を見ているのでしょうか。 デカルトやロック、バークリ、ヒュームといった近世(17‐18世紀)の哲学者たちによれば、主観が本当に知覚しているのは、樹木の幹の茶色や花の淡い桃色、あるいはそれらの形状など、要するに心の中で像を結ばれるさまざまなイメージ(=観念)です。他方、樹木それ自体など、認識との一致が問題となる客観について言えば、それらは心の外に、つまり物理空間の内に存在するのです。言うなれば、主観とは心という名の独房に生まれながらにして幽閉された囚人、それも終身刑に服する囚人のようなものです(このような考えを「独我論」と言います)。この囚人は独房の外の世界について、観念というモニター映像を通して間接的に知りうるのみです。もしかしたら、意地の悪い看守(邪悪な神)が映像の内容を差し替えていて、主観はあらぬものを見せられているのかもしれません。 しかし、観念と客観が一致しているのか、していないのか、当の主観にそのことを確かめる術はありません。それを確かめるためには、心の領域と物の領域の両方を等しく見通す能力が必要ですが、万能の神ならいざ知らず、有限の存在者である人間にこのようなことは不可能です。

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