知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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人間が確信をもって言えるのは、自分にしかじかの観念が見えているということまでで、その観念が真理であるかどうかは分かりません。現に私たちの日常生活は、見間違いや聞き間違いの事例に満ち溢れているではありませんか。 もちろん、このような結論は受け入れがたいです。人間がもつ知識の真偽は神様次第だということになれば(デカルトによれば、神は誠実なので人間を欺いたりしないらしいですが)、真理の探求を旨とする科学の営みなど完全に立ち行かなくなってしまうでしょう。先ほど挙げた近世の哲学者たちは、まさにこのような危機感をもって「どのようにして正しい知識が成り立つのか」についての知識を、つまり知識についてのメタレベルの知識を探究しました。時代が下ってフッサールも、哲学史的に見ればこのような議論の延長線上にいます。 3. 学問の危機とフッサール現象学 3-1 心理学主義 近世の哲学者たちは、心の中に(心の目で)見られる観念を手がかりとして、そこから、心の外に存在する物について知識を導こうとします。彼らの理論を個別に検討することは、ここではしません(倫理の教科書で確認してください)。ただ一つ押さえておきたいのは、近世の認識論では心と物を二つの独立した領域とみなす「物心二元論」という考え方が前提されているということです。フッサールは先人たちと上述の問いを共有する一方、彼らと違って、物心二元論を解体する方向に問題解決の突破口を見出しています(フッサールは、この方向を示してくれた先人としてバークリを評価しています)。 フッサールが生きた時代、学問の世界では相対主義がにわかに勢いを得ていました。相対主義は、「万物の尺度は人間である」というプロタゴラス(前490☝人に注目 デカルト(1596‐1650) フランスの哲学者で、合理論の祖。大学の学問に満足できず、各地を旅行して見聞を広めながら研究した。冬にドイツの暖炉部屋で見た夢から、学問を革新するヒントを得た。オランダのアムステルダムに住んで、自由な雰囲気の中で哲学を研究した。スウェーデン女王からストックホルムにまねかれるが、そこで風邪をひいて死去した。主著『方法序説』『省察』。(『現代の倫理』山川出版社、2013年、129頁)

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