知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
7/17

頃‐前420頃)の成句に代表されることからもわかるように、きわめて長い歴史をもちます。当時それが、装いも新たに心理学主義などの形を取って力を増してきたのです。いわゆる「客観的真理」とは、人間にとって、、、、、、真理と思われる、、、、ものでしかない。こう言えば単純化しすぎかもしれませんが、実際、これに近い考えが多くの人々によって支持されました。たとえば、必然的とされる論理法則(「Aは非Aでない」という矛盾律など)でさえ、人間という種が偶々従っているにすぎない心理法則というものに置きかえられるのだと主張されました。もしこれが正しければ、種の数だけ異なる論理学がありえることになります。しかし学問の目的は自然や宇宙の真の姿を知ることにあり、しかも、その知識を導き出すための基本的なツールが論理学なのです。だとすれば、以上の状況を「学問の危機」と呼ばずして何と呼ぶでしょう。 フッサールは、このような危機的状況の克服を目指して、現象学という新しい学問分野を打ち立てました。なるほど、そこで扱われる問いは、伝統的な認識論のそれ(「どのようにして正しい知識が成り立つのか」)と大きく違いません。しかし、現象学には決定的に新しい側面があります。それは長きにわたって人類を支配し続けてきた物心二元論という物の見方を、根拠のない先入観として拒絶するのです。その意味で、現象学は認識論の系譜に属しながら同時に、認識論の弱点の克服という使命も担っています。 3-2 自然主義(科学主義) なぜフッサールにとって二元論批判が重要なのかといえば、次のような事情があるからでしょう。先に述べたように、心理学主義は相対主義という好ましくない結論を導きます。この結論は、「客観的な世界が実際にどうなっているかは分からない。でもまあ、心の中の出来事については分かっているつもりだから、取りあえずそれで満足しよう」という開き直り、ないし妥協の産物だと言えます。囚人は囚人らしく、独房という自分に与えられた生活圏内で穏やかに暮らそう、というわけです。しかし、これは、学問に取り組む者がとるべき真面目な態度ではありません。もし二元論がこのような半端な態度へ誘うとすれば、むしろ二元論をきっぱりと拒絶すべきなのです。それこそ学問に身を捧げる者の真摯な姿勢というものです。おそらくフッサールはこのように考えて、

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 7

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です