知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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二元論批判に向かったのでした。 もう一度、冒頭の例に戻りましょう。あなたは教室の窓から校庭にある樹木を見ています。このとき、自分が見ているかどうかにかかわらず、その樹木はそれ自体で存在しているにちがいありません。たとえ自分が見ていなくても、また、地球上の誰も見ていなくても、その樹木は一個の物質的な存在者として、見えている場所に存在しているはずです。反対に、自分の目に樹木が見えるのは、それがその場所に存在しているからです。さもなければ咲き誇る花々の色合いや香り、幹の形態や手触り、そして木の葉のさざめき等々が、自分や他の誰かの五官を通して経験されることなど、決してなかったでしょう。普通、そう思われます。要するに、物の存在は経験をある意味で「超えて」いて、逆に、経験は物の存在に依存しています。これが私たちの常識です。 しかしこれは、ともするといわれなき偏見に転じうる危うい常識です。偏見とはほかでもない物心二元論の世界観のことですが、この世界観の普及に一役買ったのが自然科学です。 ほんらい「存在は経験を超えている」と「存在は経験から独立である」は、まったく違ったことを述べています。このことに注意しましょう。前者は私たちの経験に根差した実感なのであり、経験を欠けばかえって意味を失ってしまうたぐいの文です。たとえば校庭の樹木を見るとき、まさにこの経験を通して、このような思いがあなた自身に湧き起ってくるのです。「存在は経験を超えている」という文は、その意味において経験に依存しています。他方、後者はその主張内容を素直に受け取れば、経験に依存しません(「経験から独立である」と言っているのですから)。さらに、この文は「存在に関する記述は、記述を行う主観の視点を排除したものであるべきだ」という規範として働き、それが客観性に重きを置く科学の営みを規定することになります。自然科学関連の本を何でもよいから手にとって見てください。そこに登場する「気体の体積は温度に比例する」というたぐいの記述からは、温度変化などを経験する「私」の人称性が、ことごとく削ぎ落とされているはずです。科学が描く世界とは、純粋な物の世界であり、かつ、心のない世界です。この「かつ」で結ばれる前後は一枚のコインの両面です。つまり科学的世界観の前提には、まぎれもなく物心二元論があるのです。

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