知っているってどんなこと?-高校倫理と現象学-(梶尾 悠史 著) -奈良教育大学 出版会-
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☝人に注目 ガリレオ・ガリレイ(1564‐1642) イタリアの数学者・物理学者で、近代自然科学の先駆者。ピサやパドヴァの大学で教え、慣性の法則、落体の法則などを発見した。宗教裁判の後は郊外の別荘にこもって弟子を教育し、研究をまとめた。主著『天文対話』『新科学対話』。(『現代の倫理』山川出版社、2013年、125頁) 科学の万能が謳われる現代では、科学の共通語ともいえる非人称表現が、知識を語ることのできる唯一の正当な言語であると目されています。(この信念は「自然という書は数学の言語で書かれている」というガリレイの言葉に遡ることができます。)また科学語の根底にある二元論的世界観が、世界のありのままを捉えるただ一つの見方であるかのように信じられてもいます。これらの点で科学主義、フッサールの言葉で言えば「自然主義」と、心理学主義は軌を一にしています。両者の間に異なる点があるとすれば、自然主義をとる人々は、物の世界を非人称の視点から語ることのできる特権的な立場に、自分たちがいると自負していることです。(実は心理学主義をとる人々も、心を物理現象の一種と理解することで容易に自然主義者になるのですが……。)フッサールは自然主義のこうした自負を単なる誤認として切り捨て、二元論的世界像の解体=現象学の構築に取り掛かります。 4. 物心二元論の解体 「リチウムは波長670nmの線スペクトルを発する」という化学の記述を取り上げてみましょう。これはリチウムという物質についての記述であり、その主語は「リチウム」、述語は「波長……を発する」です。少なくとも表面上は、この記述の中に人間の姿を認めることはできません。この記述は、主観(=一人称)という頸木から解き放たれた誰でもない誰か(=非人称)によって書かれたものとして理解されることを、読み手に求めているのです。というのも、この要求を満たすときにのみ、記述は相対主義を免れて客観的な真理を描くことができるとされるからです。さもなければ、「私1にはピンクに見える」「私2には紫に見える」等々、無数の記述が乱立することになり、どれを真理とみなすかは人それぞれであるという悪しき相対主義に陥ってしまう。自然主義者によって、このように主張されます。

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