なぜドイツでは緑の党が「成功」したのか-「68年世代の党」としての視角から-(西田 慎 著) -奈良教育大学 出版会-
4/13

このように華々しく、登場した緑の党ですが、その後の展開は必ずしも順調だったわけではありません。当初、党に参加したエコロジー保守派は、その後の党の「左傾化」を批判して、81年までに党を離れていきました。こうした路線対立は、党の「お家芸」ともなり、特に80年代半ばには、SPDとの連立をめぐって激しい党内対立に見舞われます。主に現実派と言われる人たちは、SPDと連立することによって、自分たちの政策が実現できると考えたのに対し、原理派と言われる人たちは、既成政党と連立することで、妥協を強いられ、党のアイデンティティを損なうと考えました。さらに東西ドイツ統一後の90年の連邦議会選挙では、ドイツ統一に消極的だったとみなされ、旧西ドイツですべての議席を失ってしまったのです。 しかし党はこの後、劇的な復活を遂げました。まず93年には旧東ドイツの市民運動を糾合した「90年連合」と合同して、党名を「90年連合・緑の党」と変更しました。90年連合は、事実上の共産党一党独裁下にあった東ドイツの民主化を求めるグループをルーツとしています。そうしたことから、北大西洋条約機構(NATO)や欧州共同体(EC)といった西側の組織や価値観を肯定するなど、現実路線を採っていました。こうした90年連合との合同は、緑の党の路線の穏健化・現実化につながります。さらに後に外相となるヨシュカ・フィッシャーの党内での主導権が確立していったこともあり、党内対立も沈静化していきました。その結果、94年の連邦議会選挙では、再び議席を獲得して国政へ復活します。 党にとって一大転機となったのが98年の連邦議会選挙です。得票率6.7%、47議席を得て、SPDと多数派を形成することに成功し、SPDのゲアハルト・シュレーダー首相を首班とする赤緑連立政権を発足させました。赤緑連立政権とは、連立与党のシンボルカラーが、SPDが赤、緑の党が緑であることから来ています。緑の党からはヨシュカ・フィッシャーが副首相兼外相、ユルゲン・トリッティンが環境相、アンドレア・フィッシャーが厚生相として入閣しました。SPDとの連立政権は2005年まで続き、二重国籍の条件付き容認、滞在許可の簡素化や移民統合コースの

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る