なぜドイツでは緑の党が「成功」したのか-「68年世代の党」としての視角から-(西田 慎 著) -奈良教育大学 出版会-
9/13

配分の効率が最も優先されることを拒否する」という点で「左翼」であり、「中央集権的計画や党組織といった社会主義的構想を拒否し、個人の自律性や公的問題への市民参加を優先するような社会を求める」という点で「リバタリアン(自由至上主義者)」であるからです。このキッチェルトの言う「左翼」と「リバタリアン」双方の要素を内包していたのが68年運動でした。例えば後者の例として「反権威主義」ないし「自己決定」志向が挙げられるでしょう。 それでは68年運動を担った68年世代はどのようにして緑の党という政党に行き着いたのでしょうか。運動が衰退していった70年代以降、68年世代は主に4つに分かれていきました。まず政治から足を洗い、私生活に戻っていく流れです。一部は大都市や大学都市で左翼オルタナティヴ・ミリューを形成し、オルタナティヴ文化(サブカルチャー)を育んでいきました。次に与党SPDに入党して、体制の中から改革の実現を目指す流れもありました。さらに新左翼へ行く流れもあり、彼らは共産主義者同盟(KB)のような新左翼セクトを結成しました。最後はテロへ走る流れであり、70年頃に結成された赤軍派はその代表と言えます。 一方70年代は、西ドイツで反原発運動が急速な盛り上がりを見せた時期でもありました。新左翼の一部はこうした運動に参加していきます。また当時の与党SPDは、ヘルムート・シュミット首相の下、原発推進路線を採っていたのですが、反発する若手からは党を離れ、反原発運動に加わる者も出てきました。例えば緑の党の初代共同代表の1人、ぺトラ・ケリーがそうです。やがて反原発運動などを基盤に80年に緑の党が結党されると、前述の私生活に戻っていった流れの一部、特に大都市や大学都市の左翼オルタナティヴ・ミリューが党の重要な支持基盤になりました。結局68年運動を経て分岐・多様化していった68年世代が、テロに走った流れを除いて再び緑の党という政党にある程度まとまったと言えます(図2)。

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る