教育における「豊かな体験」とは?-教育哲学からのアプローチ-(浅井 健介 著)- 奈良教育大学 出版会 ー
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いるということです。修学旅行や野外活動、文化祭など私たちの生活は素晴らしい体験の機会に溢れていますが、それらは別個の非日常的なイベントのまま終わってしまうことが多く、自分の人生に直結するような「経験」には簡単に組み込めません。そのような「経験」の基盤になってくれるような豊かな体験とはどのようにすれば可能になるのでしょうか。 2.「豊かな体験」の条件とは?――ベンヤミン思想を手がかりに 素晴らしい体験は数多くするのにそれが人生経験にはなってくれない。上で指摘したそのような事態を見事に言い表したジョルジョ・アガンベン(1942- )というイタリアの哲学者の言葉の引用から、本節の議論を始めたいと思います。 現代人は、一日のうちで、種々雑多な出来事―気晴らしになる出来事や煩わしい出来事、めったにない出来事やありふれた出来事、辛い出来事や愉しい出来事―に出会い、くたくたになって夕方家に戻る。しかし、それらのうち、経験になるものはひとつとしてないのだ。/このように経験に翻訳することができないということこそが、今日―過去にはなかったほどまでに―日常生活を耐えがたいものにしているのであって、過去の生にくらべて、現代の生が質的に劣っているとか、無意味であるとかいったことが原因ではないのである(それどころか、おそらく今日ほど日常生活が有意味な出来事に満ちあふれていたことはかつてなかったといってよい)。(アガンベン 2007、20-21頁、強調は浅井) これを読んでくださっている皆さんのなかには、代わり映えのしない毎日にうんざりしている人もいるかと思います。しかしよく考えてみると、私たちの周りでは、昔の田舎とは比べ物にならないほど多くの奇抜な出来事が起き、それに喜怒哀楽を感じています。それにもかかわらず毎日が代わり映えしないように感じるのは、意義深い出来事が起こらなくなったからでも直接体験の機会が減ったからでもなく、私たちがそれを経験に翻訳できなくなったからだというのです。では、私たちの周りで起こっている様々な出来事は、どうすれば「経験」の基盤になるような豊かな体験となるのでしょうか。

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