教育における「豊かな体験」とは?-教育哲学からのアプローチ-(浅井 健介 著)- 奈良教育大学 出版会 ー
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けふとこの話を思い出して反芻はんすうしていきます。そしてあるとき自分の身に起きたことや見聞きしたことを振り返っているうちに、突然この物語の意味が分かったと思う瞬間が何度かやってきます。そうして今度は、長年かけて自分自身の経験に同化されていったその物語を、自分の人生の教訓を添えつつ語り継いでいきたいという気持ちにさせるのです。このように物語の語り手は、非常に些末な体験ですらも自分の人生経験へと組み込んでいきます。 それに対して私たちが日々新聞やインターネットを介して触れる「情報」は―また学校の教科書から暗記しようとする「情報」は―、読んだそばから忘れてしまうような性質をもっています。ニュースのトップで流れて日本中を揺るがすような大事件でも同じです。知識として覚えていたとしても、そこには何の知恵も経験も残りません。何が違うのでしょうか。ベンヤミンは、「情報」の特徴として、「即時に検証可能」であり「それ自体で理解できるものとして現れることが最も重要」であることを挙げています(同書、295頁)。そ.れ自体で理解できる.........ということは新聞や学習参考書、情報誌にとっては不可欠です。それが正確かどうかの「検証」は必要であるにしても、私たちはその情報をもとに身近な出来事の判断をしたり、学校のテストに回答したりするからです。何が言いたいのか分からない情報や確かめようのない情報ほど迷惑なものはありません。しかし、それ自体で理解でき何の疑問も残らない分、情報は私たちの記憶からすぐに消え去り経験として残らないまま終わってしまいます。 これらを踏まえると、上のエジプト王についての逸話は「情報」として極めて不適切です。それが事実であるという証拠も示されていませんし、そもそも説明不足で、この王様の行動から何を読み取ればいいのかそれだけでは理解不能です。召使いの男へのわずかな同情がすでに溢れそうな悲しみの最後の一押しになったとも読めれば、それまで悲しみをせき止めていた極度の緊張状態がたまたまこの召使いを見て緩んだとも、あまりに親しい家族のことについては悲しむことすらできないとも、どのようにも読めてしまうのです。しかし、この説明のなさこそが、物語に不可欠な要素だとベンヤミンは言います。「ヘロドトスは何も説明しない。彼の報告はきわめてそっけない。だからこそ古代エジプトのこの話は、何千年を経た後にもなお、驚きと思索を呼び起こすことができるのだ」、と(同書、298頁)。つまり、出来事を説明から解き放たれた形

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