教育における「豊かな体験」とは?-教育哲学からのアプローチ-(浅井 健介 著)- 奈良教育大学 出版会 ー
9/11

で受け取り、それをそのまま再現できるからこそ、その出来事に初めて直面したときの「なぜ、どうして」という新鮮さを持ち続け、人生のなかで何かを考えたり学んだりする際の出発点としてまた利用することができるのです。そのように説明から解放された体験こそが、前節の中教審答申が本来求めていた豊かで「具体的な体験」と言えるのではないでしょうか。 おわりに ベンヤミンが指摘した「情報」と「物語」という二つの伝達形式の区別を踏まえたとき、「豊かな体験」のためには体験をあれこれ説明してしまうのではなく、その驚きのままに受け取ることが重要であると分かりました。たとえ直接体験の機会を増やしても、それを受け取る側の私たちが「この体験は~のスキル獲得に役立つ」「地域の人の温もりの体験だ」などとあらかじめ意味づけ説明してしまっていては、肝心の体験自体が私たちの記憶から消えていってしまいます。それは体験を「情報」として受け取る姿勢なのです。それに対して、「退屈とは、経験の卵をかえす夢の鳥だ」(同書、299頁)と言うベンヤミンは、肩肘張らない精神的にリラックスした退屈状態こそが体験を豊かなものにしてくれると主張します。「ゆとり」と言ってもよいかもしれません。 ところで、「自主性」であれ「豊かな体験」であれ「教育」であれ、日々の慌ただしさのなかであれこれ自分に説明し理解してしまっている言葉が本来もっていた謎や違和感を、もう一度立ち止まって受け止め直そうとする教育哲学の試みにも同じことが言えるかもしれません。皆さんも一度立ち止まって、自分のなかにある経験の卵をかえしてみませんか? 参考文献 ジョルジョ・アガンベン(2007)『幼児期と歴史———経験の破壊と歴史の起源』(上村忠男訳)岩波書店。 ヴァルター・ベンヤミン(1996)『ベンヤミン・コレクション2エッセイの思想』(浅井健二郎編訳)筑摩書房。 中央教育審議会(1996)「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に生きる力とゆとりを―」(第一次答申、1996年7月19日)。

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る