身近な蝶にも謎がある(小長谷 達郎 著)- 奈良教育大学 出版会 ー
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コウアゲハは黒色のアゲハチョウで、河川敷や空き地のような開けたところをゆったりと飛ぶ姿が印象的です。当時所属していた筑波大学にはジャコウアゲハがたくさん生息していました。学生の住む宿舎の壁に蛹が鈴なりになることもあったほどです。 ジャコウアゲハを選んだ理由は単婚制という特殊な配偶様式と関係があります。単婚制とはメスが生涯にほぼ1度しか交尾しない配偶様式のことです。この種のオスは基本的に羽化直後の飛べないメスと交尾し、交尾が終わると相手のメスの腹部末端に交尾栓と呼ばれる塊を形成します(図3)。交尾栓にはメスが別のオスと再交尾するのを妨げる機能があり、一度交尾栓が硬化するとメスは物理的に二度と交尾できなくなります7)。しかも、実験的にメスに複数回交尾を強いるとメスの寿命が短くなることも知られてきました8)。この種のメスにとっては、複数回交尾が不利益を伴う行為になっているのです。 「詰物仮説」は無核精子がメスの再交尾を抑制するという仮説でした。メスが何度も交尾する多回交尾制の種ではこのような機能はオスにとって重要です。それに対し、ジャコウアゲハのような種では、そもそもメスが積極的に再交尾する機会がないため、オスが無核精子を使ってメスの再交尾活性を下げる必要がありません。無核精子が詰物としての機能しかもたないのであれば、ジャコウアゲハのオスにとって無核精子は無用の長物といえます。この場合、無核精子をつくらないオスの方が余計なエネルギーを使わないので、無核精子をつくるオスより多くの子孫を残せるに違いありません。「詰物仮説」のみが正しいならば、ジャコウアゲハでは無核精子が少なくなるような進化が起こるという予測が成立するのです。 実際にオスがつくる精子の数やメス体内の精子数の推移を調べたところ、予想外の結果が得られました9)。無核精子の占める割合は、オスがつくる精子・メスに渡される精子・受精嚢に到達する精子のいずれにおいても、約9割に達していたのです。この値は多回交尾制の他のアゲハチョウ類とほとんど同じ値でした。単婚制のジャコウアゲハでも無核精子が何らかの役割を果たしている可能性が高いといえるでしょう。 それだけでなく、無核精子が有核精子よりも早く受精嚢に到達することや、受精嚢に到達した無核精子の運動性が次第に失われること、受精嚢に到達した無核精子が急速に消失することも明らかになりました。無核精子が受精嚢から消えるのはすでに役目を終えたからと解釈可能です。オスが体の大きなメスにより多くの無核精子を渡すこともわかりました。これらは「移動補助説」と矛盾しない結果といえます。 2016年に公表されたこの研究は、野生の鱗翅目昆虫における定説とされて

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