標にしてきた「知」のありかたと連動していることに⾏き当たります。現在指導する⽴場にある⼈が、かつて学校で学んでいた頃から、すでに問題の根は張られていたということです。 学校教育の現場にある課題と重ねてみましょう。学校では⽇夜、how to doではかることができる様々な課題が出され、皆さんはそれらを「適切に」こなすことを⾝につけ、次の課題へと向かうように習慣づけられてきたのではありませんか? ⼩学校から⾼校の現在にいたるまで、各教科でそのつど課題が出され、到達度合いをはかるテストがあり、また次の課題をこなしていく。いったい学びは何のためにあるでしょうか。「⾯⽩い」「学びたい」という⾃らの内からの声が聞こえるでしょうか、それとも試験で良い点数を取るため、⼤学受験に備えるため、でしょうか。 そうした技術や知識の集積を「知」とみなす傾向は、芸術教育の指導者養成においても例外ではありません。これまでの学校教育が課題の連鎖を⽣み出して、⼿際良く効率的に多数派の「正解」へと⾄る⼈たちを育成する⽅向へ向かってきたのではないでしょうか。芸術にかかわる教育ははたしてそのようなものでしょうか、改めて問い直してみる必要があります。 「共感覚⽐喩」を⽤いた⾔語表現 芸術教育は、⼀⼈ひとりが異なる思いや感性を⽣かして、それぞれの⾒⽅や考えを育みながら、豊かに⽣きていくことを⽬指しています。⽣活する環境が異なり、ふれてきた⽂化も異なることを前提にするなら、私たちは⾃分以外の⼈たちと何故、どのように感覚を共有しあうことができるのかを考えてみる必要があるでしょう3⁾。 こうした問いに関係して、次に、「共感覚⽐喩」という⾔葉のはたらきに着⽬してみます。「共感覚⽐喩」とは、「⽢い線」「柔らかい声」というような表現のことを指します。「⽢い」というのは⾆で感じ取る感覚(味覚)ですが、「線」というのは⽬で⾒て捉える(視覚)ものです。「柔らかい」というのは⼿や肌で触って感じ取る感覚(触覚)ですが、「声」は⽿に届けられるもの(聴覚)です。ここに挙げた例は私たちの⽣活によく登
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