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概要

ならやま2017秋号

遺跡の解説2008年、附属小中学校特別支援学級校舎の改築に伴う発掘調査を行ったところ、巨大な基壇(石や土で作られた寺院の建築物の基礎部分)の一部が発見されました。発掘を進めると、基壇の高さは約2mに復元され、南側には幅約52mの階段跡が見つかり、幅約68m・十三間にもなる大型基壇建物が想定されました。奈良時代の建物としては、平城宮大極殿よりも大きく、当時の東大寺大仏殿に次ぐ大きさです。新薬師寺旧境内は現在の新薬師寺のある場所を東端とし、七堂伽藍が建立されたと伝えられていることから、この遺構は新薬師寺創建時の金堂跡だと推定されました。大学の東半分はこの新薬師寺旧境内だったと考えられます。新薬師寺は、天平19年(747年)に聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后によって建立され、中心には七体の薬師如来が配置された七仏薬師金堂が建てられました。しかし、応和2年(962年)に大風により金堂をはじめとする七堂伽藍が倒壊し、再建されることはありませんでした。が語る新薬師寺の歴史見どころ2様々な瓦丸瓦の全て奈良三彩平瓦の全て奈良時代の八角柱八角柱は、金堂跡から約90m南側で発見されました。法隆寺夢殿などの現存する奈良時代の八角建物を例に建築史の観点から、この場所には八角形の建物があったと想定されます。儀式をするために、火を灯す場所だったようです。よく観察すると、墨線で円を描いていることがわかります。奈良時代の建築技法を考えることのできる貴重な資料です。見どころ3遺構の復元新薬師寺の衰退奈良三彩は、中国の唐三彩にならって作られた奈良時代の焼き物です。正倉院には、奈良三彩の完形が残っています。奈良三彩は、唐三彩とは違った形・作り方をしていたようです。遣唐使が持ち帰った大陸の進んだ技術・文化を必死にまねて自国に取り入れようとした古代の遺品です。新薬師寺の中心部が奈良教育大学構内今回、金原先生の展示作業を手伝わせにあることは知っていましたが、整地されていただく中で、こんなにも多くの遺物が建物も建っていたので、破壊され遺跡とし発掘されたことを改めて実感しました。て残っていない可能性がありました。場所展示されている遺物は発掘された全体のもわかっていなかった状況で、校舎の下のごく一部でしかありませんが、どれも当時位置から旧本堂の跡が見つかった時はさすの文化や技術を知ることのできるとてもがに驚きました。さらに検出された遺構や遺物は奈良時代当時の様々な事柄を語ってくれ、わからなかった歴史を明らかにしてくれました。理科教育講座かねはらまさあき金原正明教授貴重な資料です。是非、教育資料館に足を運んでいただき、普段何気なく過ごしているこの場所に埋もれてしまった1300年前の歴史を感じてみてください。大学院修士課程教科教育専攻理科教育(文化財科学を含む)専修1回生さのこういちろう佐野宏一郎さんAUTUMN 2017ならやま_16