ならやま 2013年春号

ならやま 2013年春号 page 11/24

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ずっと、藤原良房について探求していたのでしょうかいいえ。良房の摂政についての史料は限られており、その理解もそれほど相違があるわけではなかったのです。にもかかわらず、なお議論があるということは史料的な決....

ずっと、藤原良房について探求していたのでしょうかいいえ。良房の摂政についての史料は限られており、その理解もそれほど相違があるわけではなかったのです。にもかかわらず、なお議論があるということは史料的な決め手に欠けるためだろう、そのような課題に納得のいく理解を得るのは難しいと思ったのです。良房の摂政について考えるきっかけとなったのは、一つは私の恩師である坂本賞三先生(広島大学名誉教授)が1991年に関白について、誰もが知っている史料を読み込むことから関白とは何をしていたのかを明らかにされたことです。関白は天皇を補佐すると説明されてきましたが、補佐の内容を明らかにされたのは坂本先生が初めてでした。いま一つは1993年に九州大学の坂上康俊さんが発表された論文です。この論文で坂上さんは、摂政・関白を任命する天皇の詔勅を整理し、摂政と関白が成立の当初から区別されていたと論じられました。それまでは、初期の良房やその次の藤原基経の頃の摂政と関白には明確な区別はなかったと考えられていたのです。が、坂上さんは、これまた誰もが知っている史料を丹念に、厳密に跡づけることで、それまでの理解をみごとに覆されたのです。であれば、同じように摂政についての詔勅から、良房の摂政について新しい理解が得られるかも知れないと考え、初期の摂政に関する詔勅などの史料を読みなおしていきました。それで、どんなことが分かったのでしょうか1997年に摂政制の成立について書いた論文では、清和天皇が即位したときから良房は摂政の役割を果たしていたと論じました。先ほどの教科書記述でいえば、「摂政の任をつとめ」というのが私の理解により適合的です。併せて、教科書の脚注にあった、その後良房を摂政に任命したという詔勅の存在をどう考えればよいのかについても論じました。その論文を書く中で、では、良房の摂政の終わりはいつだったのかという課題が新たに生じました。摂政は幼少の天皇に代わって政治を行い、天皇が元服して成人となれば摂政は辞任し、あらためて関白に任命されて天皇を補佐する、というのが一般的な理解だと思います。確かに、3人目に摂政となった藤原忠平以後はそうなのですが、良房は清和天皇が元服したあとも摂政を辞めていないというのがこれまでの理解でした。最初の論文では、その点について明確な考えを導き出すことができなかったのですが、それは史料の読み込みの不足が原因でした。あらためて史料を読みなおしていくなかで、すでに読んでいた史料の、十分に意『藤原良房』(山川出版社日本史リブレット人)藤原良房邸宅推定跡地に残る井戸(京都御苑)。良房時代のものではないが、「染殿井」の名は良房の邸宅名に由来します。SPRING 2013ならやま_10