幕末明治の浮世絵


奈良教育大学図書館蔵 幕末明治の浮世絵

―陳玄堂コレクションについて―

奈良教育大学名誉教授 元学長 赤井達郎


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 ここにおさめる幕末明治の浮世絵は、昭和六十四年(一九八九)奈良の旧家から古い藍染めの風呂敷につつまれて 発見されたものである。当時奈良教育大学美術史研究室が概略の調査をしたが、世に問われることはなく、平成十一年 (一九九九)の春、朝日新聞のとりあげるところとなり、三月九日の全国版、四月十四日の奈良版にカラー写真入りで報じられた。

 この大判錦絵三枚續を主とする一四五枚の浮世絵は、このなかの引札にもある奈良で墨の製造にあたった 加賀屋助蔵父子の蒐集にかかるものと考えられる。 加賀屋中山助蔵は、奈良奉行所に出入りし、時の奉行川路聖謨に唐墨の製造をすすめられて成功し、 その子松蔵も平城天皇陵など御陵にもたずさわった人物であり、そのが中山家より、奈良教育大学に寄贈されたことは、 まことに幸甚である。

 この蒐集は、ほとんどが大錦三枚續と揃いもので、歌麿・北斎といった著名絵師の作品は少ないが、いずれも保存状態がよく、 あざやかな彩色をとどめている。絵師の数は十五名と少なく、三代豊国国芳とその門人の作品が多く、 幕末から明治初年にかけて集められたことがうかがわれる。

 一四五枚のうち、年代の早いものとして広重の「魚づくし」があげられる。広重は天保四年(一八二三)の「東海道五十三次」や 晩年の「名所江戸百景」など、浮世絵における風景画の大成によって知られるが、この「魚づくし」は五十三次の直前に出されたものと 考えられ、出世作のひとつにあげられるものである。 なお、斎藤月岑の自筆本『増補浮世絵類考』の広重の項に「魚盡しの一枚画、写真にて殊によし」とみえ、 はりつめた構図や力強い筆致などに、広重の「写真」の姿がうかがわれる。

 江戸の著名人や名物の位付けをした嘉永六年(一八五三)刊の『江戸寿那古細撰記』に、吾妻錦(浮世絵)という項があり、 その上位に「豊国 にかほ・国芳 むしゃ・広重 めいしょ」という項がある。名所すなわち風景画や花鳥画では広重が筆頭であり、 役者絵・武者絵では豊国・国芳を第一席とする、というのである。初代豊国は文政八年(一八二五)に没しており、 この豊国は五渡亭・香蝶楼などと号していた国貞が、弘化元年(一八四四)に襲名した三代豊国(自称二代豊国)であり、 国芳の兄弟子にあたる。 五渡亭時代の国貞は、いわゆる「いき」なひきしまった美人・役者絵を描いていたが、天保改革のなかで北町奉行から役者の似顔絵や 華麗な美人画について「以来開板はもちろん、これまで仕入れ置き候分とも、決して売買いにすまじく候」というきびしい禁止が出される 前後から、作風も変化しはじめ、しだいに華麗な典型化した描法となったが、幕末期最高の人気絵師として多くの作品をのこした。

 天保十三年(一八四二)の役者似顔絵・美人画の禁止令も、国芳・広重にはあまり影響がなく、やがて「葭がはひこって渡し場の 邪魔になり」といわれたように、葭(国芳)が渡し場(五渡亭 三代豊国)のじゃまになるほどの評判を得た。 文政十年(一八二七)ころの「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人」は、北斎に学ぶものであるが、新鮮な着想や光と影にみる表現上の新機軸を みせ、天保に入るころからの大鯉や鯨を三枚續いっぱいに描くもの、那智の瀧を大判三枚をたてにつなぐ三枚ぎに描くなど、 奇想の絵師として高く評価された。三代豊国は国・貞を称する多くの門人をもっていたが、国芳にも芳幾・芳虎らを芳を称する門人が 六十数人をかぞえる。そのほとんどが明治初年に活躍する絵師たちであり、この蒐集でも六名があげられる。


 広重から芳幾らにいたるこの蒐集は、さきにふれたように、奈良の墨商であった加賀屋助蔵とその子松蔵(のち助蔵を襲名) の集めたものであり、ここでその周辺を概観しておく。加賀屋中山家には、宝暦六年(一七五六)以来の文書 (京都大学文学部博物館蔵・中山家文書)が伝えられるが、この助蔵は分家してその初代となったと伝えられる人物である。 助蔵の伝記はほとんど不明であるが、奈良奉行川路聖謨の日記『寧府紀事』に二、三登場する。川路聖謨は弘化三年(一八四六) 三月着任し、嘉永四年六月大坂町奉行に転任するまでの六年間、詳細な日記をつけ、その間の奈良の町をつぎのようにみている。

奈良の土地の者は八百屋豆腐やまでも謠つつみという譯故に、男女老少の別なくみなさる楽をおもしろくおもひ居る也、 風俗といふものは不思議なるもの也(弘化三年十一月)
ならはふるびても都也、菓子やの新みせ引札するなどめずらしく、江戸めきたり、いつ買いにやりても練羊羹うば玉なとに 事かくことはなし、江戸より少々やすき方なるべし(嘉永元年六月)
門番が茶の湯をするなどつけあがりしたること也。十人よりては四五人はうたをよむ也(嘉永二年七月)

 四才のとき九州日田から江戸に出て、十三歳で小普請組川路家の養子となるまで、貧しい下級武士の子として 江戸庶民の生活をみてきた川路聖謨にとって、奈良の町人たちの文化は、前任地の佐渡はもちろん、江戸とくらべても 謠や茶の湯などにみるように、決して見劣りするものではなかった。当時奈良陰陽町では近畿一円にくばられる奈良暦が 作られており、大仏殿近くには地図や名所案内を発行する絵図屋があるなど、民度はかなり高く、厚みのある文化をもっていた。 加賀屋助蔵はこのような奈良町人のひとりであった。

 川路聖謨は東大寺、興福寺境内に数千本の植樹をするとともに、その経緯を自撰自筆して「植桜楓之碑」を建てている。 彼は頼まれると気軽に揮毫に応じており、筆墨には深い関心があり、奈良奉行に着任早々、町の巡見の途中、古梅園にたちよって 墨の製造をつぶさに視察し、後日その墨をとりよせている。 奈良の墨商は天保十三年(一八四二)の株仲間解散令によって仲間は解散するが、嘉永四年(一八五一)の再興令に応じ、 このとき三十五人の墨商が名をつらねている。株仲間解散中の嘉永元年(一八四六)五月二九日、聖謨は 『寧府紀事』につぎのように記している。

きのふ出入の町人かゝや助蔵より當春よりの工夫にてつくりし墨三笏をもて来れり。少々摺こころみしに(中略)墨の當り柔にして撥墨し、 すこしひびのいりし躰いかにしても日本のものとはみえず。
 加賀屋助蔵がさきに指導した唐墨製造に成功したことをよろこび、翌日には
この頃松烟墨をつくる商人助蔵より墨を製する室を新に造り額字を乞フ、奉行所出入町人の頭なれはとてゆるし云々。
 と助蔵が奉行所出入りの町人の頭でもあり、その看板の字を書いてやることにしたと記している。

 加賀屋の墨は出来映えがよいので聖謨は、京都町奉行をはじめ江戸の老中・勘定奉行にまで贈り、奈良で親交をもった 一乗院門跡尊応法親王にもすすめ、「あまりによく出来て、夫を唐物や」が唐墨といつわって出回らせるようなことがあってならぬ、 とその墨に陳玄堂の銘をきれと申し付けている。 助蔵はこの墨銘を屋号ともしたようであり、助蔵没後(慶応元.一八六五没)伜松蔵の代になった明治十七年(一八八四)刊の 『大和名勝豪商案内記』には、加賀屋の名を(か)としてのこし「製墨所 北袋町 陳玄堂中山助蔵」として倉のたちならぶ陳玄堂が 銅版画に描かれている。

 中山家には明治初期の当家の引札が数枚伝えられ、この蒐集にも加えることができた。大きさも木版印刷の技法も大判錦絵に 酷似するもので、上方絵風の立美人の見る大衝立には「油煙墨朱錠製造 文具類卸小賣印肉類製造 諸国賣薬賣弘所」「奈良北袋町二番地  中山筑陽號」とある。加賀屋は墨作り以前に「奉行所出入町人の頭」として賣薬や文房具もあつかっていたと考えられ、 朱錠(朱墨)の製造にもあたっていたのであろう。 この引札は助蔵を襲名し陳玄堂とも称していた二代松蔵が、いつのことからか中山筑陽号と称し、奈良の町々にくばったものである。

 引札は越後屋が出した「呉服物現金安賣掛値なし」(天和三・一六八三)の引札にはじまるといい、文化・文政から幕末にかけて 賣薬・蕎麦屋はもちろん、貸本屋・女医者まで、あらゆる職種の人びとが宣伝のため、墨一色から錦絵までの印刷術を駆使して、 さまざまな形のものを出している。 明治になってもおとろえることなく、上方浮世絵で活躍した長谷川貞信をなのった小貞によれば、有名な松川半山ばかりでなく、 貞信・蕾斎らの上方浮世絵師も引札に筆をふるい「明治二十七・八年頃までは、すべて木版手摺りでしたが戦後 (日清戦争・明治二十七・八年)印刷界もよほど進歩いたしました。 銅版または機械摺りが追々盛んになり、国粋芸術の木版手摺りの引札が影をひそめました」(「明治時代大阪の版画界」)とのべている。

 幕末明治の奈良の印刷・出版では、さきにふれた大仏前の絵図屋庄八が知られ、筒井家にはその大判の日本全国の版木をはじめ、 多くの絵図・名所記の版木をつたえ、その一つ「奈良名勝全図」は大判錦絵の倍ほどの大きさで、合羽摺をほどこしたもの が流布している。 「奈良西御門町 福嶋鶴蔵板」とする中山筑陽号の引札は、その立美人の姿から上方浮世絵師の筆になるものと見られ、 小貞の言葉からも日清戦争ころまでのものと考えてよかろう。


 陳玄堂コレクションは、以上みてきたように、いわゆる名品ぞろいではないが、幕末明治の浮世絵の一面を如実にものがたるもの であることと、京・大坂にくらべ、あまり注目されることのなかった幕末の奈良の町が、高い民度をもち、その町民のひとりが このようなコレクションを楽しんでいた、という二つの点において、奈良教育大学附属図書館にふさわしい蔵書として、 貴重書書架の重要な一角をしめるものである。

(平成11年11月)


広重 魚づくし1 黒鯛 大判
広重 魚づくし2 しま鯛 大判
英泉 表紙逢妓 丸海老屋内睦奥 大判
三代豊国 俳風花むし露 大錦二枚続
三代豊国 江戸名所百人美女1 堀の内祖師堂 大判
三代豊国 江戸名所百人美女2 呉服ばし 大判
三代豊国 江戸名所百人美女4 堅川 大判
三代豊国 江戸名所百人美女3 あさじがはら 大判
三代豊国 江戸名所百人美女6 上野東叡山 大判
三代豊国 江戸名所百人美女5 鏡が池 大判
三代豊国 江戸名所百人美女7 駿河町 大判
三代豊国 江戸名所百人美女8 白銀 大判
三代豊国 青砥稿花紅彩画 大錦三枚続
三代豊国 古今名婦伝1 下女お初 大判
三代豊国 古今名婦伝2 小野小町 大判
三代豊国 古今名婦伝3 掃溜於松 大判
三代豊国 古今名婦伝4 巴御前 大判
三代豊国 古今名婦伝5 常盤御前 大判
三代豊国 源氏後集余情1 第廿五の巻 大判二枚続の1
三代豊国 源氏後集余情1 第廿五の巻 大判二枚続の2
三代豊国 源氏後集余情2 第五十の巻 大判二枚続の1
三代豊国 源氏後集余情2 第五十の巻 大判二枚続の1
三代豊国 源氏後集余情3 第一の巻 大判
三代豊国 源氏後集余情4 第十六の巻 大判
三代豊国 源氏後集余情5 夕顔 大判
三代豊国 源氏後集余情6 第九の巻
三代豊国 花競廓夜櫻1 大判
三代豊国 花競廓夜櫻2 大判
三代豊国 花競廓夜櫻3 大判
三代豊国 花競廓夜櫻4 大判
三代豊国 其姿紫の写絵1 四十 大判
三代豊国 其姿紫の写絵2 四十二 大判
三代豊国 其姿紫の写絵3 四十六 大判
三代豊国 其姿紫の写絵4 四十九 大判
三代豊国 其姿紫の写絵5 五十二 大判
三代豊国 其姿紫の写絵6 五十四 大判
三代豊国 雪月花之図 はな 大錦三枚続
三代豊国 胡蝶の舞 大錦三枚続
三代豊国 源氏御祝言図 大錦三枚続
三代豊国 花鳥乗合源氏 大錦三枚続
二代国貞 げんじ今様絵巻 わかむらさき 大錦三枚続
二代国貞 新よし原仮宅 尾張屋彦太郎繁栄図 大錦三枚続
二代国貞 六花見山城の源氏の玉川山吹 尾張屋彦太郎繁栄図 大錦三枚続
二代国貞 御誕生 田舎源氏須磨の處 大錦三枚続
二代国貞 江戸紫源氏模様 大錦三枚続
二代国貞 戍辰五月雨日記 大錦三枚続
二代国貞 女都満源氏 花乃嬋家俗 大錦三枚続
二代国貞 新よし原 尾州楼仮宅 大錦三枚続
二代国貞 色紫五節句花賀弥生乃阿そひ 大錦三枚続
国芳 安政乙卯十一月廿三日両国橋渡初之図 大錦三枚続
芳艶 王城加茂社風景 大錦三枚続
芳員 人の為こころのもちやう 大錦二枚
芳宗 頼朝公平家追討之図 大錦三枚続
芳盛 右幕下頼朝郷上京行例之図 大錦三枚続
芳虎 今様廓内黄金瓶 大錦三枚続
芳虎 名妓三曲合 大錦三枚続
芳虎 東京繁栄車往来之図 大錦二枚
芳幾 千代乃寿 目出慶づくし 大錦三枚続
芳幾 應仁記 山名細川確執之図 大錦三枚続
芳幾 金近着緒締善玉 大錦三枚続
芳幾 月の宴閨須广琴 大錦三枚続
芳幾 巽花全盛競1 甲子屋内白菊 大判
芳幾 巽花全盛競2 甲子屋内花廓 大判
芳幾 巽花全盛競3 甲子屋内四方妻 大判
二代国綱 源頼朝公上京之図 大錦三枚続
国周 新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図 大錦三枚続
国周 今様松竹梅の内 園乃子竹狩 大錦三枚続
国周 江戸八景之内 高縄の帰帆 大錦三枚続
三代広重 横浜海岸各国商館図 大錦三枚続
房種 春色庭河遊 大錦三枚続
唐船之図 大判錦絵
畫合源氏双六の袋
三代豊国 新版畫合源氏双六 847×816mm
芳虎 新板栄寿百人一首雙六 475×720mm
玩具絵
玩具絵
引札 中山筑陽號 大判錦絵 奈良西御門町 福嶋鶴蔵板

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