文学のことばをいかに読むか(国語教育講座 日高佳紀)

今日は国語教育専修の日高研究室を訪問したいと思います。こんにちは!

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こんにちは。

さっそくですが、先生の研究について教えてください!

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近代の日本文学の研究をしています。とくに谷崎潤一郎と村上春樹などの作品を中心に研究していますが、作家の伝記的な側面を中心とした研究ではなく、文学作品を読者がどう読んだか、作品のことばが読者にどのようなかたちで届けられたか、ということに注目した研究を進めています。

読者に注目した研究って、どのようにしてやっていくんですか? アンケートをとったりされるんですか?

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いやいや、実際の読者にアンケートをとったりはしません。文学作品が発表されたときの社会背景を調べて、それぞれの時代の読者にとってどのような意味をもつものであったか考えたり、その作品が発表されたメディアについて調べたりして、読者が文学と出会う場がどのようなものかを明らかにすることから始めています。そこでわかったことと作品の内容や表現との関わりについて考えていきます。

社会のなかの文学

文学の研究って、作家のことを調べたり、作品の中身を読んでいったりするだけだと思ってました。

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私のような研究スタイルでは、文学の周辺事情をまず調べていくことが前提になります。ただ、現実が単に反映されているというだけではなく、作品のことばがどんなふうに表されているかを考えることが重要です。

なるほど、それじゃあ、ひとつひとつのことばのあらわし方に注目して文学を見ているということですね。それって、どんなことがわかるんですか?

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作家も私たちと同じように社会を生きているわけですから、作品のことばには、作家自身でもはっきり意識していないレベルのことも含まれているはずです。
こんなふうに考えてみると、作家の意図や発想を明らかにするということにとどまらない、もっと広がりのある問題のなかで文学を考えてみることができるわけです。

そうした発想が、例えば、文学と他の文化領域とのつながりを考えるきっかけになります。私自身も、これまで、スポーツ、美術、建築といった文化現象や日系カナダ移民と文学との関わりについての研究をおこなってきました。単に文化のなかのひとつとして文学を考えるということではなく、作品のことばが同時代の文化や社会状況を相対化し批評する位置をもつものと考えようという試みです。

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なるほど! もっといろんな例が知りたいです!

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例えば、社会や時代状況との関係について、私が専門にしている谷崎潤一郎を例にしてみると、中期の代表作に『痴人の愛』という作品があります。

一人の独身青年がカフェで見初めた少女を引き取って自分好みの女性に育てていく物語なのですが、私は、この作品のことばを同時代の都市消費文化のあり方に引きつけた上で、男性が女性を「教育」する物語として読みかえ、そこに近代的な教育制度や社会全般に対する批評意識が込められているといった解釈をおこなってみました。

これなども、実際に谷崎がそれを意識して書いたかどうかではなく、その時代を生きる読者にそのように響いたはずだという視点をもとにした解釈ということになります。

文学と読者

当時の実際の読者は、文学をどのようにみていたのでしょうか?

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明治以降、文学はさまざまな変遷を経ていったわけで、読者の意識もいろいろと変化しました。

なかでも文学の価値転換と大きく関わった出来事として、大正期後半、1920年代あたりの「大衆」の発生と、それに伴う読者層の変化をみることができます。とくに、大正末年から昭和初年におきたいわゆる「円本ブーム」(※)は、文学の質を決定的に変化させた事態といっていいでしょう。これによって広く一般庶民にも文学が身近なものになりました。その頃から、文学は本格的に「商品」となり、売れるかどうかということを作家たちも強く意識せざるを得なくなっていくのです。

※円本ブーム:当時の出版不況打開のため定価1円という廉価で販売された全集・叢書類が空前の出版ブームとなったこと。

売り物になったことで、お客さんを意識して小説を書くようになったんですね。

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そうなんです。多くの作家たちが新しい読者層の出現に戸惑っているなかで、例外的に谷崎潤一郎は、自分のスタイルをヴァージョンアップしていったと私は考えています。

いち早く「大衆読者」を意識した作品を書き始めた谷崎は、やがて古典文学に材を取り、文体も伝統的な和文を意識した作品を立て続けに書くようになります。谷崎の「日本回帰」とか「古典回帰」などと呼ばれる作品群として非常に評価の高いものですが、文学の方向転換とともに、読者への意識がより高まっていったことの成果であると考えられます。

ふむふむ。そんなに急に価値観が変わったのに、すごいですね!

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それ以前は、例えば、大正前半に発表した『お艶殺し』というやや通俗的な作品が評判になったとき、同時期に発表した『金色の死』の方が自分の芸術観が反映された作品であると自負していたのに、『お艶殺し』の方ばかりが売れていく。そのことの悩みをこぼしたりしています。

自分の書きたいものと、読者に人気の出るものに違いがあって、悩んでいたんですね。

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ところが、昭和になって『お艶殺し』が別の小説集に収録されるときには、あの時は悩んでいたけど、あらためて読んでみるとこれはこれで悪くない、などと言うようになるんですよね。時代に伴って、谷崎自身のなかで、読者に対する意識が変化していたことの現れといっていいでしょう。

メディアのなかの文学

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読者の話に関連するんですが、なっきょんは、雑誌などに連載されている作品を読んだことがありますか?

はい、連載されているマンガで毎週楽しみにしているものがあります!

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なるほど。マンガにも、雑誌によって性格があるの、わかりますか?

確かに、バトルものが多い雑誌や、恋愛ものが多い雑誌っていう違いがあるかも。

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そうですよね。小説も、新聞や雑誌に連載されて発表されることが多く、なかには雑誌によって特定のジャンルがイメージされることがあったんですよ。例えば、谷崎が昭和6〜7年に発表した『武州公秘話』は『新青年』という雑誌に連載されました。『新青年』は通俗的な作品、いわゆる大衆小説のイメージを持つ雑誌でした。

谷崎潤一郎って、純文学で有名な作家だと思ってました。

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たしかに、同じ時期に書いた『蓼喰ふ虫』や『春琴抄』など芸術性が評価されている作品が有名ですね。それらを書く一方で、昭和に入ってからの谷崎は「大衆読者」を意識するようにもなっていたので、メディアによって書き分けていたと考えられます。

へえ!『新青年』に合わせて、新しいチャレンジをしたんですね!

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『新青年』は探偵小説を多く掲載していたのでそれを嗜好する読者層が一定数いたはずですが、雑誌としては「モダニズム総合雑誌」への移行を企図していたところでした。

『武州公秘話』は、当時の大衆小説の中心であった「時代小説」でありつつ、「武州公」をめぐる「謎」を含ませることで探偵小説愛好者の期待に応え、さらに当時流行していたエログロの要素をも盛り込んだエンターテイメント作品です。まだ一般には、大衆小説が「文学」と見なされていなかったような時期に、こうしたメディアに作品を発表すること自体が特別なことだったはずですが、むしろそのメディアの傾向を利用して読者にアプローチしながら、自身の文学世界を表現したわけです。メディアを読者との出会いの場として強く意識していたことがうかがえますね。

へえ、どのメディアに発表したかによって、文学の読み方が変わってきそうですね。そういうことも意識して読んでみたいです。

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メディアの問題というと、作品の発表メディアというだけでなく、発表後に演劇化されて舞台で上演されたり、映画化されたり、ということからもいろいろと考えることができます。

文学を原作にした映画作品って結構いろいろありますね。

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そうなんです。とくに谷崎作品はかなりの数が映画化されています。文学作品は、映画になることで、新たな読者=観客と出会うことになります。専門的には、二次創作とかアダプテーションと言われる領域の研究ですが、映画化された時代と原作の作品の時代との違いはもちろん、例えば映画というメディアにしか表現できないことを発見したり、逆に、原作に含まれていた、ことばで表された表現だったからこそ可能であったことに気づかされたりなど、考え始めるとさまざまな問題が浮かび上がってきます。現在はそうした研究を進めているところです。

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物語とフィクション

なるほど、メディアに注目すると、読者との関係がみえてくるんですね。

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そのとおりですが、メディアと読者をとおして、ただ単に文化のひとつとして文学を考えるのではなく、文学そのものの価値を作品のことばから捉えていくことが重要です。

それはどうやってみつけていくんですか。

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私が主に研究しているのは文学の中でも詩歌ではなく小説の方なのですが、この場合、通常は「物語」という形式をとっています。この仕組みを細かくみていくということ。それと、現実の話でないものがいかに「本当らしく」書かれているかを明らかにしていくということ。この二つは相互に関わりながら、小説ジャンルのことばを組み立てていく上で不可欠な役割を担っています。そうした物語とフィクションの仕組みが、いかに効果的に内容を表現しているかを考えていく。そんな感じです。

何か具体的な例をつかって説明していただけますか。

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では例えば、次の2つの文を見てみましょう。いずれも作品冒頭部分からの引用です。

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あ、両方ともきいたことある作品です!

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そうでしょう。二つをくらべてみると、三人称と一人称という形式の違いがあることにはすぐに気づくと思います。でもそれだけではない、さまざまな物語表現の違いが含まれているんです。

(1)は芥川龍之介『羅生門』ですが、この物語では登場人物の内面はほとんど描かれず、その行動だけを描写していくというスタイルをとっています。最後の老婆の着物を剥がして逃走する際の「下人」の内面も、読者の解釈に委ねられているため、平安時代を舞台としているにもかかわらず、近代的な個人の内面を反映させた物語として読むことになります。

一方、(2)の夏目漱石『吾輩は猫である』は、冒頭から現実離れしたフィクションであることが示されています。それを読者は一旦受け入れて読みすすめなくてはなりません。でもそのうちに猫から見た人間世界という特殊な内容をリアルに読みとっていくことになります。

ちょっと見ただけでも、これだけの物語とフィクションの違いがあることがわかると思います。それぞれの作品内容を効果的に表すためのしかけが物語の冒頭から作られているのです。そして、いずれもフィクションの世界を表すことで、現実の世界を相対化し批評する力をもっています。こうしたところに文学の価値があるといっていいと思います。

文学研究のひろがり

日高研究室のゼミ生のみなさんは、どのような研究をなさっているのですか。

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私自身は学生に「興味があるなら作家研究をしてもいいよ」と言っていますが、実際はほとんどの学生が、文学作品を同時代文化や社会状況と相対化する点を見出して解釈するという研究をしています。扱う作品は、学生によって、明治期のものから現代作品までさまざまです。

また、私は「テクスト(作品)の外部」と呼んでいますが、テーマ設定もさまざまで、例えば「都市」「病」「歴史記述」「資本主義」「犯罪」「戦争」......などなど、じつに多様です(ゼミ生の卒論・修論等の題目はこちらhttp://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~hidakay/products.html)。学生諸君とおつき合いすることで、私も勉強させてもらっています。

文学って、「これが正解!」っていう基準がなさそう。難しいですよね・・・

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そう考えられがちかもしれませんが、私は必ずしもそうとは思いません。テーマに沿った資料等を調べることで「外部」をできるだけ緻密に捉え、そこで得た問題意識と作品のことばとの交差するところを見出して論じること。正解かどうかはともかく、文学やことばの持つ力を発見することを目指しています。また、私の研究室所属生のほとんどは教員志望なのですが、ここで学んだ文学の価値を見つける取り組みを、卒業してからもいろんなかたちで活かしてくれているようです。

そうなんですね。ゼミ生のみなさんが、ことばの面白さをこれから伝えていって、文学の研究がまたいろんな視点から広がっていくといいですね。
今日はありがとうございました!

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国語教育講座 教授 日高佳紀

※この記事は、2021年7月の情報を元に作成されています。

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