学長対談(平成28年10月11日 於:東大寺) - 奈良教育大学

学長対談(平成28年10月11日 於:東大寺) 大学紹介

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奈良教育大学では、奈良にある国立の教員養成大学として、地域、特に奈良県、における教員養成の中心的役割を果たしています。
今回は、奈良教育大学の経営協議会学外委員でもあり、全国的にも知名度の高い東大寺の長老である筒井寛昭氏をお招きし、仏教のお話を交えていただきながら教育についてのお考えを伺いました。

加藤久雄学長
奈良教育大学 加藤久雄学長
筒井寛昭氏
東大寺 長老 筒井寛昭氏
(経営協議会学外委員)

奈良教育大学に期待すること-仏教を通じて教育を考える-

加藤
本日はお忙しいところありがとうございます。今回は「奈良教育大学に期待すること」をテーマに、本学に関すること、また教育に関することについて、筒井様のお考えをお伺いできればと考えております。
筒井
私は戦後教育が始まった頃に小学校に通っていました。戦後すぐだったので、基本的な教えを変えなければいけないという過渡期で、どのように教えたらよいのかと学校も先生も試行錯誤している時期でした。例えば、視聴覚教育を中心としようということで、映画も行きましたし、音楽も教育の中心として取り扱われていました。また、生徒の自主性を育てるということを目的に、朝の放送、昼食時の放送、帰りの放送は全部、放送部の学生がやっていました。昼食時の放送は今で言う聴きやすいクラシックなんかが放送部によって流される。僕らが5,6年生になったときには先生が新しいことを考えようって言うので、みんなでラジオを作ろうなんていうことにもなりました。 他にも、飼育部が飼っている動物の飼料や糞尿を、小学校に任されている畑に持って行くなど、畑の世話もしていました。きれいに片付けて藁を敷いて、糞尿が混じった藁を畑に持っていって肥料にしてカボチャなんかを収穫したりするわけです。休み時間になれば運動場で、みんなでコマ回しをしたり、模型飛行機を持って行って飛ばしたり。そういった自主性を大切にしようということがたくさんありました。その様子をたくさんの先生の卵が授業中にやって来て見学していました。なかなか楽しい教育でしたよ。
だからかもしれませんが、趣味とか大きくなったら何になりたいとかは小学校の先生が与える影響がすごく大きかったと思います。私は、今の小学校の先生にも、子ども達にいろいろな事を教えることができるだけの知識を持って欲しいと考えています。社会なら社会、理科なら理科しかできないということではなく、社会と算数を掛け合わせて教えることができるような知識と力量があって欲しいと思います。雑談が大変役に立つこともあります。
加藤
そうですね。教師自身が今まで経験してきた様々なことから、そういう知識や力量が身につくものですよね。そういった力量を本学の学生にもつけていかないといけませんよね。
筒井
そうです。いい先生はいろいろな話をしてくれるわけですよ。そういう知識が自然と蓄えられていくというのが大切だと思います。ただ1+1=2というのではなく、私は、いろいろな意味を教育の中で教えてもらった気がするのです。
加藤
教科書をただ漫然と教えるのではなく、自身の知識と経験から、教科書の行と行の間を汲み取って、それを子どもに教えることができる先生になって欲しいですよね。
筒井
それと、よく学校外に出ました。遠足でなくても、鹿を見て帰ってくるとか、ドングリを拾って帰ってくるとか。奈良公園へは10分ぐらいで行けましたので、頻繁に郊外学習がありました。そんなことがあって、春夏秋冬でどんな魚が泳いでいるのか、どんな風景になっているのか、感情、感性というものまで教えていただきましたね。
東大寺庭園
筒井
伝統文化もたくさん見ましたよ。墨づくりを見に行ったり、書を見に行ったり。だから奈良はいいところだ、面白いところだと思ったんですよ。それもかしこまって行くのではなくて、「行こ行こ!」って先生に連れて行かれて、それだけパッと見て帰る。「これはこうだから。」と教えるのではなく、ただ見た感じを覚えて帰る。そのような教育だった気がします。小学校でも、文化あるいは伝統に関しての教育をしていない学校も多いかと思いますが、実際に伝統文化を観て、感情や感性を豊かにする教育もして欲しいですね。そういうことを生徒に教えるためには、先生が学ばなければならない。そういうことを教えることができる先生を育てることを、奈良教育大学へ期待しています。
加藤
うわべだけではない本当の知識を本学の学生には身につけさせないといけませんね。
筒井
それが第一の話です。そこに考えを巡らせてみると、お釈迦様ってどういう教え方をしていたのかということが思い出されます。人間は結局何を目的にどのように生きていけばよいのだろうか、ということが大切だと思います。 教師は子どもに対して、学ぶべき所はこれだということをやっぱり示さないといけないと思います。義務教育の間に、その教育を子どもは学んで、人間として育っていかないといけない。
ただ、教育なんて必要ないという人もいますよね。基本的な知識が修得できていれば、日常生活で困ることはないかと思います。ただ、生きていく道は学ばなければならないと思います。今は、数学と理科が世界的に共通な教科だから、これをしっかり教えて、世界と競走できないと困るというような論調がありますが、それと同時に、日本人としてのアイデンティティーを持つための国語と社会をしっかり教えなければならない。本来、グローバルというのは自分の国を知って、世界を知っていくということが必要ですが、今の日本では、日本のことより先に世界のことを知りましょうという風潮です。
加藤
そういうところはありますね。
筒井
だから、日本の学生が海外へ留学したら、必ず日本のことを話さないとならないことがおこります。けれど、何を話していいかがわからないので、親や先生に電話がかかってきます。しかし、アメリカ人は、国の歴史は短いですが、自分の国はこんな国です、ということをしっかり話すことができます。 自分の国をまず知るということを、日本の教育で一番大切にしなくてはならないのではないかと考えています。仏教では、自分を作ることを目的にしています。お釈迦様が亡くなるときにお弟子さん達が、「先生がいなくなってしまったら、私は何を頼りに、誰を先生にして学んでいったらいいですか。」って聞いたときに、「私が今まであなた達に話したことを覚えているでしょう。それを自分の中でかみ砕いて、自分のものとして持っていれば、学び続けることができるでしょう。」と言ったそうです。指導的な人の話を聞いて、自分の中で確立したものの積み重ねで、新しいものができていきます。自分を作りなさい、自分を頼りにして生きなさいということなのです。他人を頼りにしてはいけない。しかし、自分を作っていくためには、他人の意見をたくさん聞かなければいけない。他人の話をたくさん聞いて、多くの経験をして、社会のことを吸収して、自分の考えを確立していくことが大切です。聞いたことだけではもちろんダメですが、自分と何を組み合わせるのが良くて、何が悪いのかということをしっかり考えて、作り上げた自分というものが大切だ、ということをお釈迦様は説いています。
加藤
お釈迦様がお弟子さんに伝えたことを、お弟子さんが自らの血や肉にしていれば、自分がいなくなった後も学んでいけるだろうと。お釈迦様はどういう生活の中から、お釈迦様は悟っていくことができたのでしょうか。
筒井
自然現象をよく観察していたのです。その中で、自分はどうしていかなければならないかいう考えを必ず持ちながら、いろいろな事を見たり話を聞いたりして、これは自分に必要なことだ、それは私には必要ないことだ、というようにして、取り入れたり省いてしまったりして自分を作っています。だから、お釈迦様が言ったことが今でも通用する。
加藤
筒井寛昭氏それが時間を超えて今の私たちに伝わってきているのですね。
筒井
そうです。過去の一切の経験や体験がその人を構成しているということは現在でも同じです。特に、両親、先生、友人からの情報による影響が大きいですね。
お釈迦様がもう一つ言っていることがあります。それは、不変なものは絶対にあるということです。人間は変わっていったり、考え方が変わっていったりすることはありますが、変えていってはならないものがあるということです。それが法、真理なんだと。つまり、地球があれば重力がある、というようなことです。ニュートンが発見したといいますが、それは宇宙が始まってからずっとあるものだということと同じように、宇宙の真理というのは、宇宙が始まったときから始まっているもので、それは変えることができないということを理解しないとならないと言っています。自分を作っていくことと、自然に対して畏敬の念を持って、自分たちが生きていくことができるのは、まず自然があってそこに私たちが居させてもらっている、その自然の真理を曲げてまで生きていこうとすれば不幸になると説いています。
加藤
「生かされている」ということですね。
筒井
そうです。だから、法というものあるのだ、真理という宇宙の原理があるのだ、それを蔑ろにしてはならないということです。
加藤
法と真理は衝突し合うことはないでしょうか。
筒井
自分の欲望が大きくなってしまうと衝突します。例えば、水不足や電気を作るためにダムを築いて水を止めるといった人々の生活の助けになる役目を持ったものでも、大水が来たときに水が決壊してダムがあふれて人々に災害を与えることがおこってきます。幸せを願うことが不幸につながっている可能性があると。また、温暖化なども、人間がいいと思って化石燃料を使ったりして温度が上がって、そのためにいろいろな災害が出てきてしまっている。自然を考えず、自分が先に出てしまう、欲が先に出てしまうと、真理から外れてしまうことになります。自分を作っていくということは、自然の摂理から外れる可能性がありますので、自分を不幸にしてしまう可能性があると説いておられます。2500年前にすごいことを考えておられるなと思います。
加藤
現代は、自然に対する畏れとかそういったことが薄れてきているのではないかと思いますね。お釈迦様は、あの時代に何をご自身で見て、何を受け止めてこう言う考えに至ったのでしょうね。
筒井
お釈迦様はある時、「お釈迦様は悟りを開いたから、これ以上功徳を得る修行をする必要がないでしょう」と言われたときに、「真理というものは一つではない。まだまだ求め続けていかなければならないものだ。」と応えたそうです。上を向けば探求するものはいくらでもある、私は修行途中であり、一つのことを見つけたけれども、それ以上のことも探求しなければならないという向上心です。 11のお顔がある11面観音という観音様がありますよね。なぜ11あるかご存じですか。あれは、同じ話をいろいろな人に対して話そうとしたときに、同じ説明で全員に伝わるのかということを示唆しています。だから、子どもに対しては、子どもにわかるように話をしないといけない。どのような方法で、どのように話をするか、ということです。同じ話であっても、優しく話をするのか、哲学的に話をするのかなど、相手の状況によってお顔が違うのだということです。子どもから大人まで、おじいさんやおばあさんまでいる中で、同じ話をしても一部の者にしか理解してもらえないのが普通です。だから、たまに易しいことを言ったり難しいことも言ったりして、全体が解らなくても、部分的に解ってもらえたら、というような話し方になってしまいます。ところがお釈迦様は、「対機説法」といって子どもだったら子ども向けの、大人だったら大人向けの、という話し方をしなければならないと考えておられるのです。それが顔の形なのです。怒った人に対してどのような顔をして諭すのか。怒った人に怖い顔をしたら、けんかになりますよね。子どもに怖い顔をしたら泣いてしまいますので、笑った顔で話をしてあげるのがいいだろう。この顔にはこの顔で話しましょう、というように顔を変えるのです。
加藤
ということは学校の先生は11面観音じゃないといけませんね。
筒井
その通りです。それぞれの子どもの性格を見て、こういう話をしてあげたら分かりやすいな、ということを読み取らなければならないと思います。
加藤
悲しんでいるときもあるだろうし、楽しいときもあるだろう。先生がどの顔を使うかという選択は十人十色でしょう。先生としての技を見極める必要がありますね。
筒井
だからお釈迦さんは求め続けているわけです。自分は他人に指導する立場ではあるけれども、まだまだ修行しなければならないということがたくさんあるのだと。
加藤
筒井さんもそういうことを大切にされているのですね。筒井さんが子どもの前で話をされているのを拝見すると、子どもの心をこう、ギュッと掴んでおられるなという印象があります。
筒井
いや、難しいですよ。子どもは素直ですから、変なことを言うと絶対に返って来ます。子どもだからと考えて話をすると絶対に失敗します。最近、「何で?」と言う子どもが少なくて、言ったことに納得してしまうことが多いように感じます。「何で?」という子どもは、自分を作っていくことができる。だから、「これ何で?」、「あれ何で?」と言える子どもをたくさん育てていくことのできる先生、学校は素晴らしいと思います。そういった先生を育てていくことが奈良教育大学に期待することの一つです。
加藤
関西の人は「ほんまですか?」って言う。そこから始まることがありますよね。「ほんまですか?」は本当にいい言葉だと思います。
筒井
私が最初に教育方法について考えさせられたのが、シカゴで東大寺展を開催したときの話です。学校から子どもがスクールバスに乗って見学に来る様子を見ていると、先生は「集まりなさい。」、「行ってきなさい。」というだけでした。日本だと、ここに展示してあるこの作品が国宝ですから、素晴らしいですから、など言うことが多いですよね。それが、アメリカで見た先生は生徒に全然教えないのです。それで、時間になったら「帰りましょう。」と言って帰って行きました。
私が「これで勉強になるのでしょうか?」と尋ねたところ、「帰ってから勉強です。」という返答でした。子どもが「この作品が良かった!」と言い合うわけです。たくさん作品があった中で、自分が好きな作品がどれだったか、これが好きだった、あれが好きだった、その作品のどこが好きだった、などを話し合うわけです。他の人は自分と違う作品に注目しているわけです。 そういう教育を、シカゴで見ました。
日本だとこれ見なさいと言われるから作品が百あったら三つか四つ、全員がそれらを観ていって、他の作品は観ないことが多いかと思います。そうではなくて、自分の目で見て、いい作品、自分に合った作品に触れる、というような教育があってもいいと感じました。
加藤
私も同じような経験があります。アメリカの博物館に行った際に、5、6人の子どもが作品を観ていました。どうも学校から見学に来ているようだったのですが、私に対して「これがいいよ!」、「あれがいいよ!」と教えてくれました。近くには先生もいなくて、本当に広い博物館で、何時まで見学したら集合するということだけだったようです。
筒井
教えられた作品しか見ずに、他の作品を見ないということは、他の作品を見る必要がないと考えてしまいます。ところが、他の子が「あれがよかった。」、「これがよかった。」と言っていたら、また次にそれを観に行きたいと思うことができます。そしてまた同じ美術館などに行き、友達の言っていたことを確かめに行くのです。そういった、次の機会を考える教育というのが大切だと思います。
加藤
型にはめすぎない教育が大切であるというお話ですね。
筒井
次は「戒律」についてのお話です。自分を高めていこうとする何かを見ていかなければいけない、というのが先ほどのお話ですが、次は自分自身をどのように正していったらいいのかというのが「戒」です。「戒」と「律」というのは元々別の規範なので、本当は「戒」と「律」は別々ですけれども、今では「戒律」と言っています。
「戒」は自分が守るべきもののことを言います。だから、「私は太らないようにしましょう」、「朝ご飯は半分にしましょう」、ということを書いて紙に貼るわけです。しかし、守れなくても罰はありません。自分が決めたことですから、決めても守れないことはありますよね。罰は与えられません。それを守れなくても罰は与えられませんし、自分がもう一度それをやろうとすればいいわけです。
ところが「律」というのは、集団の中で誰かが一つのことをすると皆に迷惑がかかることがありますよね。例えば、勉強しているときに誰かが廊下を走るといけないから廊下は歩きましょうと書いて貼ってあったりしますよね。あれが「律」です。大きな声を出してはいけませんとか、一方通行を逆に行ったら困るでしょうとか、そういうのが「律」です。集団を乱す行いを正すものが「律」なのです。
対談の様子
筒井
自分自身のことを決めているのが「戒」で、集団の中でしてはいけないことが「律」ということです。「律」を乱すと、それは知らなかったでは済まないので、人に迷惑をかけたのだから罰を与える必要があるということで、「律」には罰があるのです。仏教の罰はそんなに難しいことではないのですが、しかし、とても難しいことを求めています。例えば、他人を殴った時に、殴った方は謝っているが殴られた方は許してくれない。許してくれるまで罰は続くのです。どれくらいたっても。殴られた人が許してやろうと言わなかったらその罪は無くならないのです。相手がその罪を許してくれた時に、その罰がなくなるのです。罪を犯した者は、許しをもらうためには、心からの懺悔が必要です。このことが相手の許しにつながれば、三日でもなくなることもあるでしょうし、一週間になるか一年になるかはわからない。許してやろうと言ってもらえるまで罰はなくならない。お釈迦様が教えている罪の償いというのは、こういう方法です。
加藤
なるほど。許しを請うことには、ある意味際限がない。
筒井
これはあくまで仏教の集団の中での話です。修行者同士でけんかしても、よっぽどのことがない限り、ある程度したら許してくれるわけです。
加藤
仏教には人を許すこと、許しなさいという教えもあるのですか?
筒井
教えというよりは、許す、許さないというよりも、自分に対してされたことにより、罪を犯した人の気持ちを感じることが大切であると言っておられます。罪を犯されたものであっても、罪を犯した感情を考えることにより、その罪を共有するんだと教えています。
加藤
私はキリスト教で言うところの「無償の愛」について考えることがあります。学校の先生と話していると、自分に限界を感じてしまうことがよくあると聞きます。そのような時、この言葉が頭をよぎります。
筒井
いろいろな文化があり、いろいろな話がありますが、その例の一つとして、「ありがとう」を言わないという文化の国の話があります。物事を一つの「ありがとう」という言葉で切るのではなくて、残しておきたい、切らないで続けて欲しい、「ありがとう」と言うとそこで会話が終わってしまう。そのように考える文化もあるようです。
加藤
それは実際にその国へ行かれて体験されたことと以前仰っておられましたね。
筒井
言葉の持っている重さ、意味合いというものが文化によって異なることがたくさんありますが、そのことをもう少し考えてみてもいいのかなと思います。
加藤
言葉に対する思いというか、言葉の与える影響力というものは非常に大きいですよね。
筒井
だから、お釈迦様も話すのは怖い、難しいと言うのです。いろいろな考えを持っている人々に話をするときに、言葉にすると誤解される可能性がありますと言っておられます。だから真理は絶対話さないのです。
因分可説・果分不可説といいます。原因の因は可説なのです。話すことができる。
果分不可説、果というのは結果の果は不可説、話せない。つまり、悟りという結果に対して、話すと誤解を与える。誤った真理を見つけられると困るので話さない、しかし真理に至った過程についてはいくらでも話しますよ、ということです。
原因は話します、でも結果については話しませんということです。言葉の意味合いをしっかりと言っているわけです。
加藤
現代は何でも言わなければわからない社会になっているという一面があるように感じます。
筒井
そしてその言葉が、聞き手によって違う意味で捉えられるわけです。
加藤
さきほどお話にあった墨づくりや書、博物館の展示物などの伝統文化のお話に通じるところがあるように感じます。伝統文化の捉え方は人それぞれ異なります。それを画一的にこれは素晴らしいものだから、と教えるのではなくて、個々の感性を大事にして伸ばしていく方法を考えて教師は教えていかないとならないですね。
筒井
日本の伝統文化は、世界の中で類を見ない、素晴らしい文化であると思っています。数々の内乱の歴史がありながら、現在までこれだけの伝統文化が残っている国はそうはないのではないでしょうか。
それだけに、教育の中で、伝統文化についてもっと教えていかなくてはならないと考えています。そこはやはり奈良から発信しなければならないと思いますし、それを子どもに教育する先生を奈良教育大学には育ててもらわないとならないと考えています。
加藤
加藤久雄学長奈良にある本学が、奈良の小学校・中学校・高校などの児童・生徒に対して、奈良のよさ、伝統文化を発信できる先生を育てることで、本当に日本の文化を大切にする学校を作っていかなければなりませんね。
私は奈良の生まれではないですが、奈良に不思議な安心を感じることがあります。何が安心感を与えるのかとずっと考えていたのですが、奈良には昔から何か変わっていなくて、繋がっているものがあるのだなとすごく感じています。
日常の中で、学校の先生が子どもを連れて、一刀彫りの作業姿をちょっと見学に行ったりするのですよね。そういうことができるこの奈良という文化を大事だなと、大事にしていかなければならないと思います。
また、その奈良の地で、奈良教育大学はなくてはならない大学になっていかなくてはならないということも強く感じています。奈良にある教員養成大学だからできることを本日は教えていただいたような気がします。また、本学はそういう特色を打ち出していかなければならないですね。
筒井
本日お話したお釈迦様は、来るものは拒まず、去る者は追わず、必要な人が来ればいいといいますが、必要になったときに何をしたらいいかわからなくなっては困ってしまいますので、困る前にちょっと基礎的な勉強しなさいということを説いておられます。奈良の伝統文化についても、まずは概要を学んで、必要になったらそれから奈良に来て勉強すればよいと思います。
加藤
奈良教育大学もこれからもっと頑張っていかないとなりません。伝統文化というものに視点を当てて、伝統文化から私たちが学び得るものがたくさんある。本当の伝統文化に触れていくことも大切にし、また本学の学生が教員になったときには、奈良、日本の伝統文化の素晴らしさを発信していくことができるような力量をつけることも大切にしていきたいですね。


-そろそろお時間となりましたので、最後に本日のテーマの「奈良教育大学に期待すること」ということでお話をまとめていただきましょう。
筒井
学校の先生にもっと雑学を教えてほしい。その勉強だけではないことを教える先生を育てていかなければならない。
加藤
雑学、つまり教科の枠にとらわれず教えることができる教員を育てていかなければならないということですね。奈良にはこれだけ日本の伝統文化があるわけです。伝統文化の知識は本でも勉強できますが、近くにあるということは、いつでも生で見ることができるわけです。本学から歩いてすぐのところに大仏殿あるのに、在学中の四年間で一度も行ったことがないというような学生がいないように考えていきたいと思います。
筒井
国立大学に関して、やはり学生を教育することに国がお金をかけないとならないと思います。一部の大きな大学、分野にだけお金をかけるのではなく、教育大学、教育という分野にもお金をかけなければならない。教育大学というのは、子どもを育てる人を育てる場所です。最近よく言われる、大学自らお金を稼ぐ必要があるという論調や、大学の予算を減らしていくという考えでは人は育たないと思います。
加藤
子どもが育っていく中で見返りを求めたらダメですね。
筒井
この社会はビジネスの社会とサービスの社会です。ビジネスの社会は儲けようとする商売です。サービスというのは奉仕をする仕事です。だから、奉仕する人がやったことに対して見返りを求めない職業です。それが例えばお医者さんであり、僧侶であり、先生なのです。
でもそれが逆転してきていると感じます。儲けないとサービスできない。ビジネスとサービスの心構えが同じになってしまい、サービスもビジネス化してしまっている現状があると思います。
加藤
本日はお忙しいところ貴重なお話をいただきありがとうございました。
対談の様子
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奈良教育大学 総務課
TEL:0742-27-9104
E-mail:kikaku-kouhou