令和4年度奈良教育大学大学院教育学研究科修了式 告辞(3月24日) - 奈良教育大学

令和4年度奈良教育大学大学院教育学研究科修了式 告辞(3月24日) 奈良教育大学

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 本日ここに、晴れて、奈良教育大学大学院教育学研究科を修了される46名の皆さん、修了おめでとうございます。あわせて、ご家族やご関係の皆様に、教職員一同、心よりお祝い申し上げます。

 ようやく、コロナという長いトンネルの出口が見えてきました。大学院在学中のすべてにおいて、この影響を受けてしまった皆さんに、学長として、今、かける言葉は、「ありがとう」です。
 大学の一構成員として、未知なる脅威を正確に理解し、どう対応していくかを深く考え、決断し、そしてともに立ち向かい、ともに乗り越えてくれたことに、「ありがとう」と言いたいです。研究をするにも、教職大学院の学校実践を行うにも、多くの苦労があったことと思います。研究機関として、高等教育機関として、奈良教育大学が、今、皆さんを世に送り出せることに、コロナ以前の修了式とは違った喜びを感じています。

 全世界のあらゆる人々が努力し、この困難を克服しようとしてきたことは、私も理解しているつもりでした。しかし、不覚にも、私自身、昨年の年末から新年にかけて罹患してしまい、大みそかも、そして元日も、医療に携わる人々が、私のために電話の向こうから心を込めて対応してくださいました。熱にうなされながら、やさしさが心に沁み、「人や社会のために尽くす」、その尊さを、あらためて実感しました。

 コロナはまもなく収束することでしょう。今度こそ、そうあってほしいと強く願うところです。しかし、「かつて経験したことのない」課題は、これからも、おそらく、次々と私たちに押し寄せてくることでしょう。何が正解であるかはわからない、やってみなければわからない…。そんな課題に立ち向かわなければならないのが、もうすでに迎えている現在と、これからの社会です。それは、ここにいるすべての皆さんが、勇気と大学院で身に付けた高度な専門性を発揮して困難な課題に挑戦し、人々や社会のために尽くし、持続可能な社会の創造を牽引していく時代です。

 さて、今、「高度な専門性」と申し上げました。専門というものは、その分野をより深く追究していく際、常に注意深く進めていかないと、どんどんと狭い領域に入り込んで行き、周辺を見失ってしまう恐れがあります。

 私が高校2年生の時、ある女性のクラスメートから、「宮下君は音楽だから文系よね」と言われたことを思い出します。文系か理系かの履修決定をする時期のことです。私はピアノで進もうと決めていたのですが、「文系」と言われるより、「宮下君は音楽だから理系よね」と言ってほしかったことを覚えています。
 それは、ちょうどそう言われた数日前、数学の授業で証明問題を当てられ、黒板に解答を書いたところ、それをみた先生が、「うーん、美しい」、と、言ってくださったことにあります。
 「数学に美しいも、美しくないもあるものか。答えが正しいか間違っているか、それが数学なのではないか」と思っていたのですが、その先生は、「論理の展開に無駄がなく、美しいのだ」と、説明してくださいました。その時、中学校の数学の先生も、コンパスなど使わず、フリーハンドで、それは見事に、美しいまん丸の円を黒板に書かれていて、「すごいな」と思ったことも蘇りました。
 で、「美しい」と褒められたことに気をよくした私は、「音楽はやめて数学の道に進もう」と簡単に進路変更し、親に告げました。そんな矢先、「宮下君は文系」と言われて面白くなく、一方で、「音楽は、本当に文系なんだろうか? バッハのフーガは、ありゃ数学だぞ」と、バッハの伝記を読みながら感じていたこともありました。

 また、ちょうどその頃、小論文の過去問に取り組んでいた時、ある大学で
 「医学は文系か、理系か、思うところを述べよ」といった問題が出題されていたことに興味を持っていました。今でこそ、人を見ず臓器だけを診ようとする医師が批判されたり、「総合医療」という概念や、複数の異なる科の医師、看護師、薬剤師、管理栄養士、カウンセラー等が連携し患者と向き合う「チーム医療」が定着したりしていますが、当時としては、実に良問であったと高校生ながら思っておりました。

 あらためて、皆さんに問います。医学は理系でしょうか? 文系でしょうか?

 大学受験のために作られた枠組みから言えば、医学は理系とされています。でもそれは正しいでしょうか? それに、そもそも「文系・理系」という受験で使う枠組みをそのまま学問の分類として当てはめ、学問を捉えることはできるのでしょうか?

 教育学修士、教職修士(専門職)の学位を取得された皆さんは、教育学や教育実践を追究してきた中で、自分が強みとする教科などの分野であっても、その近接領域や、遠く離れている分野とも関わり合いがあることは、当然、理解していることと思います。
 それは、当たり前のことですが、大事な理解です。なぜなら、今後の研究のためのみならず、教育のことのみならず、複雑で多様な社会に存在する、複雑で多様な課題、何が正解かがわからないような課題に対し、それらを解決していくためには、異なる分野の知見を、つなぎ、統合し、融合し、そしてそこから新たな知見を導いたり、新たな価値を見いだしたりする、極めて創造的な発想と努力が必要になるからです。

 「専門職学位課程」の「専門職」という言葉も、これからの教育やそこで必要とされる教師の資質・能力を考えると、注意して捉えなければなりません。教師は「教育のプロ」、あるいは「授業のプロ」と言われます。プロフェッショナルとは、「特定の活動に関して高い能力と、優れた技能をもつ人」という意味です。教師の仕事における「特定の活動」は、教育であり、授業などであるわけですが、そこで必要となる専門性とは、教育や授業のことについても幅広い見識をもち、そのために、教育の経験を重ね、その経験から教育や授業に繋げる視点と力量をもつことによって、培われるものだと思います。

 このことは、ESDとも共通します。ESDの実践では、定められた指導内容をそのまま教えるのではなく、教師自身の、あるいは子供と共に暮らす生活の中で、「これは教材になるのでは」、「この課題を解決すればきっと世の中や生活は明るく楽しいものになるはずだ」、といった眼差しで、「探す」ということと「創る」ということを行っていなければなりません。

 知らないことを知る、なかった「もの」や「こと」を新しく創り出していく、そうしたことをどん欲に、積極的に、そして楽しみながら行っていけることが、今後、専門職としての教職において特に求められる力量でしょう。教職は極めて創造的な営みであると、私は思います。

 身の回りを見ると、人間の創造性が生み出した事物はいくらでもあります。日本画家の千住博氏は、日本の納豆とイタリアのパスタを組み合わせた「納豆スパゲッティ」や、価値観の異なる春夏秋冬の季節を一枚の絵に収めた狩野永徳の「花鳥図」を例にあげ、「異なるものが一定の秩序の元で、オーケストラのように1つの調和を奏でるところに、和の思想の根本がある。」と述べ、そうした「和」の考え方が芸術の根本的な部分と関りがあり、日本の独自性であると語っておられます(※1)

 日本の伝統文化に囲まれ、多様性と包摂性の推進を宣言している奈良教育大学で、学術研究や教育実践に没頭された皆さん、どうか、研究で導いた知見と、鍛えた教育実践力を大いに発揮するとともに、感性と創造性をもって様々な場で活躍していただきたいと切に願い、今後の学校教育と文化の持続発展に貢献されることを心より期待いたします。

 数学の道に進むことは、わずか1週間であきらめた私ですが、数学が好きだったことは、私のその後の人生の中で少しだけ潤いをもたらし、幅を広げてくれています。限られた人生の中で知識や教養の幅を広げるには、本を読む、趣味を持つ、様々な経験をする、などいろいろありますが、「人と会って話をする」ということは必須です。
 特に、異分野、異業種といった、自分の専門や領域とは異なる分野で活躍する人々と対話をすることは、言うまでもなく人生に幅と潤いを与えてくれます。
 ここには、留学生も多くいます。国を越えてネットで繋がることはたやすいことですが、便利なツールを用いることなく、あえて、お金を貯めて、時間をつくって、海外の同級生に会いに行く、これを是非、実現してください。

 最後に、『ピアノを弾く哲学者』を著した、フランソワ・ヌーデルマンの、おもしろい言葉を紹介します。解釈は多様です。

 「そもそも知識人とは、主義として、自分とはかかわりのない事柄に口を出す人のことを言う。」

 以上、修了生に送る告示といたします。

 

令和5年3月24日
奈良教育大学 学長   宮下 俊也

 

(※1)『WEDGE』第22巻,第10号,株式会社ウェッジ,2010.9.20発行,pp.56-57より