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オガサワラシジミという、小笠原諸島にのみ分布する日本固有のチョウがいます。近年、野外での生息が確認できておらず、2020年の夏には島外で飼育されていた集団も途絶えてしまいました。オガサワラシジミは絶滅にもっとも近いチョウのひとつといわれています。
オガサワラシジミに出会ったのは2020年の春のことでした。当時所属していた研究室では、昆虫の遺伝子や進化に関するさまざまな研究がなされる一方で、カイコやナミテントウなどの実験昆虫や益虫を対象に、凍結保存のノウハウも蓄積していました。
オガサワラシジミ
このとき、私が取り組んでいたテーマの一つが、チョウのオスがつくる特殊な精子の機能の解明でした。チョウやガのオスの精子には、通常の精子である有核精子と、核のない無核精子の2種類があります。無核精子にはDNAがないので、受精には使われません。それにもかかわらず、チョウ類のオスがつくる精子の9割が無核精子です。この謎を解明すべく、実験台に向き合う日々でした。
そんな私のもとにあるとき、「オガサワラシジミの精子を調べてほしい」という依頼がありました。「飼育している卵が孵化しなくなったのは、精子の異常では?」と疑ってのことでした。標本を解剖してみると、たしかにオスのつくる精子が著しく減少していることがわかりました。
すぐに繁殖途絶を回避できる解決策はありませんでした。しかし、卵や精子などの細胞が残っていれば、いつか再生への道が拓けるかもしれません。懸命な飼育が続けられる一方、将来に望みを託す策として、オガサワラシジミの細胞や卵巣などの凍結保存も進められました。
凍結保存するタンク
哺乳類の場合は世代交代に数年以上かかることも珍しくありません。それに対し、昆虫の世代交代はもっと早いのが普通です。オガサワラシジミでも世代交代にかかる時間は約2か月でした。飼育による絶滅危惧種の生息域外保全(生息地の外でおこなう保全)では、労力やスペースが不足したり、情報が少なくて飼育が難しかったりするため、限られた数の個体しか繁殖させられないことがあります。この場合、近親交配が起こるので、世代交代が早いと急速に遺伝子の多様性が失われていきます。精子の異常は外見でわからないため、気づいたときには手遅れになってしまうこともあります。
チョウの精子や卵巣の凍結保存法の確立が、私の目下の課題です。細胞の凍結にはどの種でも似た方法が使われるのに対し、解凍後に受精卵を得る方法はその限りではありません。チョウでは、凍結保存した精子と卵を受精させたり、凍結保存した卵巣を別の個体に移植して受精可能な卵を得たりする方法が十分に研究されてきませんでした。もちろん、これらの方法が確立していなければ、オガサワラシジミの細胞も解凍できません。しかし、チョウとガは同じ鱗翅目です。カイコ用の技術を応用できるはずだと、飼育しやすいキタキチョウを使って、どのような条件で凍結細胞由来の受精卵を得られるのか、細かな要因を追究しています。
キタキチョウの移植した凍結卵巣
絶滅の危機にある種はオガサワラシジミだけではありません。生息数が100個体ほどになってしまった種や生息地が残り数か所しかない種はほかにもあります。凍結保存をどのような種のチョウにも応用できるようにすることで、絶滅危惧種の保全の一助にしたいと考えています。
生物への興味は子どものころから。中学・高校時代には、休日を丸一日、カナブンの研究に費やすこともありました。本州の平地には茶色の体をもつカナブンと黒色のクロカナブンという2種のカナブンがいます。ある時、自宅で飼っていた2種を観察していると、クロカナブンに触れると後脚をぴょんと立てたまま静止することがあるのに、カナブンにはその行動が見られないことに気づきました。
夏休みには郊外の森に飛び出して、一日中、野生のクロカナブンを観察しました。すると、スズメバチとの餌場を巡る闘いのさいにクロカナブンの後脚が上がり、敵を追いやっているとわかったのです。学校の先生の指導のもと、映像を撮りながら何度も同じ現象を観察して、根拠を積み重ねました。
だれも気がついていない「未知」が身近にまだまだあって、科学的なアプローチを重ねれば、謎が解き明かせる。このことが研究者としての原体験となりました。
オガサワラシジミの絶滅が危ぶまれたとき、多くの関係者が過去の研究に絶滅を回避するための手がかりを探しました。
思い返せばオガサワラシジミに関わるまで、研究の名目としての「保全」が頭にありつつも、本気で「保全」と向き合えてはいなかったように思います。オガサワラシジミとの関わりは研究観を問い直すきっかけになりました。いまではどのような研究もいつかなにかの役にたつと、心の底から信じています。オガサワラシジミの再生には多くの課題がありますし、絶滅危惧種は増え続けています。道のりは長くとも「すべての研究は役に立つ」。この時の経験が研究の支えになっています。
もう一つの研究テーマは、昆虫の季節適応。たとえば、夏に育つか、秋に育つのかによって羽の模様が変わるチョウはたくさんいます。ある種のチョウでは、幼虫の時に経験する日の長さや温度によってホルモンのバランスなどが変化し、成虫になった時の模様が変わります。夏に羽化した個体と秋に羽化した個体では寿命も5倍ほど違ってきます。
昆虫は身近な存在ゆえに、昆虫の分類学や生態学の分野にはアマチュアの研究者も多いのが特徴です。オープンアクセスの仕組みが充実し、一般の方でも論文にアクセスできれば分野全体の底上げにつながります。
オープンアクセスで読める論文:
Destination of apyrene sperm following migration from the bursa copulatrix in the monandrous swallowtail butterfly Byasa alcinous (2020)
https://www.nature.com/articles/s41598-020-77683-x